筑紫氏館跡。宗像氏の使者との接見など、戦国時代における外交の舞台であった=鳥栖市牛原町

■戦国時代の深い交流

 7月9日、福岡県の「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群が世界遺産に登録されたことは記憶に新しいところです。古来より栄えてきた宗像地方ですが、戦国時代には鳥栖地域と深い結びつきがありました。

 戦国時代に鳥栖地域を治めていた筑紫氏は、古くより宗像郡内に170町の領地を持っていました(永正十四年筑紫百宝丸坪付)。やがて、宗像氏貞が宗像大社大宮司として当主になると、筑紫惟門の娘(別説には広門娘)が氏貞へ嫁ぎ、一女をもうけます。この縁もあってか、永禄3(1560)年6月に豊後の大友氏が宗像氏貞を攻めた際、筑紫惟門の牢人が宗像地方に隠住していたことが文書に記されています。

 氏貞へ嫁いだ母娘は故あって離縁されますが両氏の関係は続いたようで、基山町専念寺に墓がある筑紫良祝が密かに味方することを伝えた書状や、大友家重臣戸次道雪の仲介で取り交わした起請文などが宗像大社文書に残っています。

 天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州平定によって宗像・筑紫両氏の立場も大きく変わる中、宗像氏家臣であった占部貞安は肥前国瓜生野村(現在の鳥栖市本町一帯)に領地を与えられたといいます。遠く離れている宗像市と鳥栖市ですが、縁深い歴史があったのです。(地域リポーター・田中健一=鳥栖市儀徳町)

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