唐津城(手前)と唐津の市街地。小笠原長行は唐津藩で藩主名代として藩政を担った=唐津市

唐津市が所蔵する『萬留帳』の一部。「殿様」(小笠原長行)が庄屋の宗田運平宅を訪れ、算術について尋ねたという記述がある

■唐津治世3年、領民を重視

 米国海軍提督のペリーが来航して以降、欧米列国の船は各地に姿を現した。玄界灘も例外ではなく、日露和親条約が締結された1855年には、ロシア船数隻が唐津藩領の沖合を航行し、藩は100人を超える家臣を呼子に派遣した。日米修好通商条約など安政5カ国条約が結ばれ、鎖国体制が完全に終わった数年後には、英仏の船も呼子に寄港している。

 唐津小笠原藩の初代藩主長昌の庶子長行(ながみち)は、ペリー来航時の江戸の動揺を体験している。

 長行は天保13(1842)年、21歳で唐津から江戸に上り、藩の下屋敷に居を構えて勉学に励んでいた。

 水戸藩の藤田東湖ら見識の深い学者と交流を深めていたためか、ペリー来航を契機に開国か攘夷(じょうい)かで世論が沸騰する中、冷静に受け止めていたようだ。来航翌月の嘉永6(1853)年7月、幕府の海防参与を務めていた水戸藩主徳川斉昭に建白書を書き送っているが、その趣旨は海防の充実と諸藩の財政再建で、庶民の生活安定を優先するように求めるものだった。

 高島秋帆から西洋式砲術を学ぶなど進取の気性にも富んでいた長行の存在は、建白書によって注目され、斉昭ら実力者にも知られるようになる。土佐藩主山内容堂の後押しを受けて幕閣に迎えられる動きにつながっていくが、その前に唐津で藩政トップとしての経験を積むことを求められた。

 長行は安政4(1857)年、36歳にして2歳年下の5代目藩主長国の養子になり、翌年4月から長国の名代として藩政を担った。

 長行を巡っては、藩主に推そうとする動きが過去にあった。2代目の藩主長泰が引退する際、12歳だった長行を「既に15歳以上」と家臣が偽って推挙したが、実現しなかった。このころからくすぶっていた家臣団の対立は、長行の名代就任によって再燃する。

 長国を支持する「大殿派」と、長行を推す「若殿派」の争い。こうしたせめぎ合いと一定の距離を置くように長行は、名代になった年の6月、家臣を城中に集めて施政方針を示した。

 <上下貴賤(きせん)の差別なく一和して各々の力を頼るほかこれなし>

 難局にある藩政を立て直したいという思いが先立ったのだろう。長行は、身分に関係なく広く意見を聞く姿勢を打ち出した。開国前後の動きで政情の不安定さが増す中、小笠原氏が棚倉(現在の福島県)から転封(てんぽう)したころから続く財政難が深刻化していた。

 農民や町人も自由に意見が述べられるように「目安箱」を設置、困窮を訴えた農民を救おうと藩の蔵米6千俵を分け与えた。村々の私塾で若者を教育する唐津藩の伝統を生かし、庄屋の意見も積極的に藩政に取り入れた。見借村の庄屋宗田運平は、長行が運平宅を訪れ、教えていた算術のことなどを詳しく尋ね、励ましたと書き残している。

 こうした改革姿勢は、保守的な家臣の反発を招いた。長行は、倹約令を無視したとして大殿派の家臣を家老職から解き、反対勢力を抑えはした。ただ、このときの派閥争いが生んだ亀裂は、後に倒幕か佐幕かの選択を迫られる唐津藩を揺さぶることになる。

 文久元(1861)年4月、長行は参勤交代で江戸にたち、名代としての治世は3年間で終わった。長行の藩政改革について『佐賀県史』は「必ずしも成功したとは言えない」と指摘する。領民の信望は集めたものの、流行したコレラへの対処を含め、社会不安を拭うまでには至らなかったという評価なのだろう。

 松浦史談会会長の山田洋さん(80)の見方は異なる。「30代後半という遅い名代就任で、長行は意欲に燃えていたはず。腰掛けという意識はなかったろう」。その上で、こう位置付ける。「唐津藩の厳しい現状を受け止めた上で改革を推進し、民の心をつかもうと努力をした。唐津での3年間で、為政者としての基礎を養ったと言える」

■コレラと彗星

 安政期の唐津藩を揺るがしたのが、異国船とコレラだった。安政5(1858)年8月から藩内で流行したコレラは影響が拡大し、人々に恐怖を与えた。

 コレラの流行は長崎で始まり、唐津藩内では呼子から広がった。悪病退散を願って日夜、祈とうが行われたが、猛威は城下町に達し、周辺の村々にも及んだ。『佐賀県史』によると、沿岸部で多くの患者が出て、幕府が手当ての方法を指示したが、それでも領民の大半は神仏に頼ったという。

 この心理は、「不吉なことが起きる」と忌み嫌われていた彗星(すいせい)の出現と無関係ではないのだろう。『肥前町史』は「コレラの大流行が彗星の出現と期を同じくしたことが、当時の人々を如何(いか)に恐れさせたかは想像以上のものがある」と記している。

=年表=

1842(天保13) 小笠原長行が江戸へ

1853(嘉永 6) ペリーが浦賀に来航

           長行が水戸藩主徳川斉昭に建白書を提出

1857(安政 4) 長行が唐津藩主小笠原長国の養子になる

1858(安政 5) 長行が長国の名代になる

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