淳一郎への種痘を描いた「直正公嗣子淳一郎君種痘之図」(佐賀県医療センター好生館蔵)

伊東玄朴が青年期を過ごした旧宅(奥)と、庭にある玄朴の胸像=神埼市神埼町的

伊東玄朴の旧宅内には関連資料が展示されている

■牛痘法普及に「在来知」

 欧米列国の進出に備え、幕末に軍備を拡充させた佐賀藩。暮らしを脅かすのは外圧や自然災害にとどまらない。疫病も脅威で、対策は重い課題だった。

 4歳の少年のか細い腕に医師が慎重に針を刺す。後ろに立つ藩主鍋島直正の表情は不安げだ。佐賀県医療センター好生館が所蔵している「直正公嗣子淳一郎君種痘之図」は嘉永2(1849)年、後に11代藩主となる淳一郎(直大(なおひろ))に、天然痘の予防を目的に種痘を施す場面を描いている。

 淳一郎への種痘は、牛が感染する牛痘に由来する痘苗(とうびょう)(ワクチン)を接種し、免疫をつくる「牛痘法」が用いられた。それまで実施されていた「人痘法」は、天然痘患者から得た痘苗を接種する手法で、そのまま発症する恐れがあった。

 天然痘はウイルスを病原体とする伝染病で、感染力が非常に強い。発熱し、全身に膿(うみ)を伴った水疱(すいほう)ができる。「不治の病」と恐れられ、まん延するたびに多数の死者が出て、江戸時代は死因のトップだった。寛政5(1793)年に大流行した八丈島の三根村では人口1400人のうち、山に逃げた200人を除く1200人が感染し、460人が亡くなっている。

 『鍋島直正公伝』も、繰り返される惨状を伝えている。「天保末から流行した天然痘はしばらく伏していたが、弘化2(1845)年ごろから再び広がり、年を越すと死者が増えた」

 牛痘法は、英国の医師ジェンナーが18世紀末に考案した。佐賀藩では幕末に、神埼郡仁比山村(現・神埼市)出身で江戸に医塾「象先堂(しょうせんどう)」を開設していた藩医伊東玄朴が、直正に導入を進言した。

 長崎で西洋医学を修め、牛痘法も学んでいた玄朴。彼がその必要性を痛感したのは、友人の漢学者大槻磐渓(ばんけい)の長男への感染がきっかけだった。病状は深刻で、玄朴が「治癒の望みはない」と伝えた通り、なすすべなく息を引き取った。

 長女まで失うことは耐え難いと、磐渓から種痘を懇願された玄朴は人痘法で対応した。一般的だった鼻腔(びこう)からではなく、腕に接種する牛痘法の手法を取り入れ、無事に成功させる。

 この評判はまたたく間に広まり、佐賀藩が牛痘法をいち早く取り入れる動きにつながっていく。玄朴からの進言を受けた直正は弘化4(1847)年、オランダ人から牛痘苗を入手するように、長崎に住む藩医楢林宗建に命じた。

 海外から痘苗を取り寄せる試みは容易ではなかった。宗建から依頼されたオランダ商館医モーニッケが嘉永元(1848)年、牛痘の膿(うみ)を密封して長崎に持ち込んだが、種痘しても効果がない。長旅で腐敗したことが原因とみられた。

 そこで宗建は別の手だてを提案する。「日本の人痘法では、発疹の跡にできる『かさぶた』を使って成功している。ぜひ、かさぶたを持参してほしい」

 提案に賛同したモーニッケは翌年、かさぶたを持って来日。長崎の出島で、宗建の三男への種痘を成功させる。宗建は別の子どもたちにも接種する中で佐賀城下を訪れ、子どもから抽出した状態の良い痘苗を淳一郎への種痘に使った。

 牛痘法による種痘成功の知らせは全国に広まり、モーニッケの痘苗は江戸の玄朴をはじめ、各地の蘭方医に伝わっていく。

 牛痘法が短期間で全国に普及した背景には、蘭方医が牛痘法の知識を書物から得ていたり、人痘法を習得していたりしたことが影響したと考えられる。医療史を研究する佐賀大学特命教授の青木歳幸さん(68)は、宗建がモーニッケに提案した背景にも、天然痘予防に関する「在来知」の存在があったとみている。

 かさぶたの粉末を鼻から吹き込む人痘法は中国から伝わり、日本で就寝中に吸い込ませる方法に改良され、失敗が減った。「人痘法を巡るこうした試行錯誤の歴史が宗建に蓄積されていたからこそ、『かさぶたなら成功する』という発想に至った」と青木さんは指摘する。

 牛痘法の導入後も各地で接種方法は工夫され、実践は積み重ねられていった。

■蘭方医のつながりで全国に

 牛痘法は、モーニッケが持ち込んだ痘苗によって成功する以前、日本で何度か試みられている。長崎・出島のオランダ商館医で、伊東玄朴に西洋医学を教えたドイツ人医師シーボルトも文政6(1823)年の来日後に試みた。ただ、長旅で痘苗が効果を失ったためか、失敗に終わっている。

 択捉島の番人だった中川五郎治による接種成功を日本への種痘伝来とみる説もある。中川は捕虜となって送致されたシベリアからロシア語の種痘書を持ち帰り、文政7(1824)年に蝦夷(えぞ)地と東北の一部で接種を成功させた。

 佐賀大学特命教授の青木歳幸さんは、中川の接種は地域が限定されていたが、モーニッケの痘苗は蘭方医のネットワークがあったため短期間で全国に普及する結果になったとみている。

 天然痘自体はWHO(世界保健機関)が1980年に根絶宣言をした。

=年表=

1823(文政6) 長崎・出島のオランダ商館医シーボルトが牛痘苗を日本人に接種したが、失敗

1824(文政7) 中川五郎治が蝦夷地などで種痘に成功

1847(弘化4) 鍋島直正が、牛痘苗を入手するように楢林宗建に命じる

1849(嘉永2) オランダ商館医モーニッケを通じて牛痘苗を入手。直正の長男淳一郎に接種する

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