国立科学博物館 鈴木一義さん

三重津海軍所跡で新たに見つかった遺構について、佐賀市職員(中央)から説明を聞く人たち=2016年3月、佐賀市

■国立科学博物館 鈴木一義さん

 日本の近代的造船業の礎といわれる佐賀藩の三重津海軍所跡。国立科学博物館産業技術史資料情報センター(茨城県)でセンター長を務める鈴木一義さん(59)は早くからその歴史的意義を指摘、発掘調査に携わり、2015年7月の世界文化遺産登録に関わった。科学と出合った時代の人々の動きや意識を尋ねた。

■他藩に伝搬工業化の礎に

 三重津海軍所(佐賀市川副町、諸富町)は、安政5(1858)年に設置された「御船手(おふなて)稽古所」から発展し、海軍の拠点になった。洋式艦船を修理するドライドック(乾船渠(かんせんきょ))を備え、初の国産実用蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」を建造した。

 「日本の近代化は、あの規模から始まった」とあらためて思う。ペリー来航を機に大船建造が解禁されると、佐賀藩はすぐに着手した。海軍所は長崎に造ってもよかったはずだが、地理的に近い三重津を選んだ。地に足が着いた、あの規模感から積み上げたことは非常に日本的。技術力を過信せずに取り組んだ様子が伝わってくるし、独学だったことの証明にもなる。

 明治維新は「工業化」の歴史でもある。その幕末からの歩みの中で、西洋と日本在来の技術との差を、身をもって体験したのが佐賀藩や薩摩藩だった。

 佐賀藩は模型ではなく、実物の大砲や蒸気船を造ってしまった。「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重ら優秀な技術者を藩外からも集め、実際に使えるものを造った。それによって今どの位置にいるか、何が足りないかを理解できた。

 長崎で警備を務めていた佐賀藩は、オランダ船に偽装した英国船の侵入を許した「フェートン号事件」で対外的な脅威を身をもって知った。脅威や恐怖にあらがうためには、どう西洋化するかが問題だった。

 現代の理化学研究所のような存在で、蒸気機関や電信機を研究した精煉方(せいれんかた)。日本で初めて鉄製大砲の鋳造に成功した築地反射炉。幕末の佐賀藩には、科学技術やものづくりにまつわるさまざまな試みがある。

 もともと職人が担っていたのは「技術」であり、「科学」とは別ものだった。

 世界における科学と技術の一体化は、18世紀頃から始まる。産業革命では、蒸気機関の開発や改良に象徴されるように、非効率な部分を科学で改善した。「技術」に「科学」が加わることで精度が上がった。

 日本でいち早く、科学と技術を融合させたのが佐賀藩の精煉方だ。藩主鍋島直正の肝いりで設置され、蘭学者だった佐野常民が職人を集めて体制を整えた。西洋の脅威という緊急事態が、科学と技術の一体化を急がせたと考えている。

 それまでの技術体系にはないものに挑んだ現場では、相当な苦労があっただろう。職人の経験を生かして試作にこぎ着けても、量産には至っていない。欧米のような工業力の蓄積がなかったことが理由だ。

 科学的な原理や構造など、理屈で成り立っていくのが近代。量産はできなかったとしても、独力で理屈を学び、試したことは非常に大きな意味がある。

 反射炉では、欧米式の組織的な鉄づくりに取り組んでいる。日本刀の鍛冶製法を想像してもらうと分かると思うが、従来の鉄製品の生産は「個人の技」に寄るところが大きかった。欧米は工場というシステムで作っていた。佐賀藩が挑んだ新たな鉄づくりは、家内制手工業から工場制手工業へと移り変わる世界の潮流を映していたといえる。

 佐賀藩は西洋の科学技術の吸収に熱心な藩と積極的に交流している。薩摩藩に技術書の翻訳を贈り、幕府が築造を命じた韮山(にらやま)反射炉(静岡県)には技術者を派遣している。藩の成果が国内に普遍化されていく営みが見て取れる。

 幕府を含め、藩主同士でかなり情報が共有されていたようだ。技術面の情報のオープン化がこの時期の日本の特徴と言える。

 鎖国をして、諸外国と戦う必要がなかった江戸時代。各藩は争うことよりも、地域をいかに安定、繁栄させるかを考えた。技術や知識は通常、自分だけのものにしたいと思うものだが、列強の脅威が迫ると、日本を守るという共通の目的のために活用された。藩主は海外の本を翻訳するように命じ、さまざまな知識が日本語化された。

 藩のことだけを考えていては全体を守れない。情報が幅広く流通したことが、その後の国としてのまとまりを生み、工業化の礎になり、国力の底上げにもつながっていったのではないか。

 すずき・かずよし 1957年、新潟県生まれ。東京都立大工学部卒、同大学大学院工学研究科修了。87年から国立科学博物館に勤務し、日本における科学や技術の発展過程を研究。文化庁の世界文化遺産特別委員会ワーキンググループ委員を務めた。

=年表=

1808(文化5)  フェートン号事件

1830(天保元)  鍋島直正が第10代佐賀藩主に就任

1840(天保11) アヘン戦争(~1842年)

1844(弘化元)  火術方を設置し砲術研究を開始

1850(嘉永3)  大銃製造方を設置し築地で反射炉建設に着手

1852(嘉永5)  精煉方を設置

1853(嘉永6)  ペリー浦賀来航

           ロシアのプチャーチンが長崎来航

           多布施反射炉築造開始

           韮山反射炉(静岡)築造開始

1855(安政2)  精煉方で日本初の蒸気車ひな型が完成

1857(安政4)  韮山反射炉の技術指導のため、杉谷雍介らを派遣

1858(安政5)  三重津海軍所の前身「御船手稽古所」設置

           医学寮を移転し、好生館に改称

1860(安政7)  桜田門外の変

1861(文久元)  直正が隠居し、鍋島直大が第11代藩主に

1865(慶応元)  三重津海軍所で日本初の実用蒸気船「凌風丸」が完成

1867(慶応3)  大政奉還

           王政復古の大号令

1868(明治元)  戊辰戦争(~1869年)

           明治改元

*   *

■次回は、佐賀藩10代藩主鍋島直正の銅像除幕式(3月4日)に合わせ、徴古館学芸員の富田紘次さんに直正の歩みや時代認識を尋ねます。

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