さが維新前夜(37)

さが維新前夜(37)

さが維新前夜(37)

■海外で見聞 動き本格化

 開国後、初となる海外公式訪問への船路だった。

 万延元(1860)年1月、横浜港。米軍艦ポーハタン号と江戸幕府の蒸気船咸臨丸が米国に向けて出航した。ポーハタン号には幕府の使節団77人、随行した咸臨丸には艦長の勝海舟ら96人が乗船。両船には8人の佐賀藩士も乗り込んだ。

 使節団は幕府が、日米修好通商条約の批准書の交換を目的に派遣した。

 「鍋島直正公(こう)傳(でん)」によると、前年から参勤交代で江戸にいた藩主直正は、幕府が遣米使節団を計画していることを知ると、すぐに「随行者を選ぶように」と国元に命じている。佐賀県立図書館近世史料編さん室の松田和子さん(45)は「長崎で伝え聞いていた西洋の姿に直接触れられる絶好の機会と捉えたはず。本当は自分が行きたかったのでは」と心境を推し量る。

 随行者は長崎海軍伝習所の伝習生や医師を中心に選抜し、幕府役人の従者という立場で渡米することになった。ポーハタン号に乗船したのは綾部新五郎、川崎道(どう)民(みん)、小出千之助、島内栄之助、福谷啓吉、宮崎立(りゅう)元(げん)、本島喜八郎の7人。咸臨丸には秀島藤(とう)之(の)助(すけ)が乗り込んだ。

 佐賀藩が送り出した人数は、熊本の2人、長州や土佐などの1人と比べて多い。直正の対外意識や、幕府の佐賀藩に対する評価の高さがうかがえる。直正はそれぞれに支度金100両を支給し、「蒸気船の運用や英語を学んでくるように」「米国の蒸気船が何隻あるか調査を」などと指示。米国が開国を求めたときの目的が捕鯨船の補給地の確保だったためか、クジラ漁の調査も申し付けている。

 太平洋を横断する航海は苦難の連続だったという。暴風雨に加え、船酔いで苦しむ者が続出した。ポーハタン号は嵐の影響で燃料を想定以上に消費し、船体に不具合も生じたため、補給と修理のために急きょ、ハワイに寄港した。川崎は家族宛ての書状に、寄港の経緯や気丈に振る舞う佐賀藩士の様子、現地の風景や物産などを書き記している。

 先行した咸臨丸は37日間の航海の末にサンフランシスコに入港。ポーハタン号は2週間ほど遅れて到着した。「公傳」は佐賀藩士の様子を「咸臨丸修理のため海軍造船所に宿泊した秀島らが米国人船舶工に質問し、『大いに実験の益』を得た」と伝える一方、「訪問団にいたのは蘭学者のみで英語が話せず、不自由した」と記している。

 ポーハタン号に乗船していた使節団はパナマ経由でワシントンに移動。太平洋横断の実績をつくった咸臨丸は日本へ引き返した。

 外国奉行新見(しんみ)正興(まさおき)が正使を務めた使節団はワシントンで市民の歓迎を受ける。ブキャナン大統領に謁(えっ)見(けん)し、批准書も交わした。

 「公傳」には、ワシントンで佐賀藩士が感じたことが次のように記されている。「東部は繁栄を極め、電線、鉄道が縦横に走っている。交通や通信は便利で、貿易や製造業も拡大しており、日本人を心底驚かしている」

 一行はこの後、ニューヨークを経由して大西洋を横断する。喜望峰を回り、インド洋、東南アジアを経て9月下旬に帰国し、結果的に世界を1周する8カ月に及ぶ旅を終えた。

 日本初の遣米使節団に参加したことは、佐賀藩にとって貴重な経験になった。小出は「洋行日記」、島内は「米行日録」で、見聞してきたことを報告した。持ち帰った鉱物や植物、領収書や名詞類は直正の「内外収集標本箱」に収められ、今も残っている。

 「公傳」は、小出が「世界の知識は英語により得られる。蘭学のみだと時機に後れをとる」と痛感した様子を記す。こうした受け止め方は、佐賀藩を蘭学から英学へと急速に傾倒させる契機になり、後に「致遠館」となる英学校「蕃学(ばんがく)稽古所(けいこしょ)」の設立にもつながっていった。

 遣米使節団が帰国した翌年、幕府は欧州に使節団を派遣し、川崎道民ら佐賀藩士も再び加わった。軍事や科学技術にとどまらず、政治の仕組みや歴史、生活、文化に現地で触れ、新たな交易の可能性も探る旅。内政の不安定さが増す幕末に展望を開こうとするかのように、海外で見聞を広める動きは本格化していった。

■日米結んだ蒸気船

 米国に使節団を送り届けた米海軍の蒸気船ポーハタン号は日本との関わりが深い。安政元(1854)年の2度目のペリー来航の際は、江戸湾に入った後に旗艦を務め、開国交渉の舞台にもなった。

 水車型の推進装置が付いた米海軍最後の外輪船で、1852年に就役した。遠洋航海を重視した造りで、全長77メートル超の大型船だった。米本国艦隊の旗艦として運用された後、東インド艦隊に配属。ペリー来航時、長州の吉田松陰が米国への密航を企て、乗船を願い出たのもこの艦だった。

 安政5(1858)年の日米修好通商条約も、この艦の上で調印した。米国まで使節団を送った後は南北戦争に従事し、メキシコ湾やカリブ海で活動した。終戦後は南太平洋艦隊や本国艦隊に転属となり、1886年に退役した。

■年表

1854(安政元)米国のペリーが浦賀に再来航。江戸幕府が日米和親条約に調印する

1858(安政5)幕府が日米修好通商条約に調印。英国、フランスなど4カ国とも同様の条約を結ぶ

1860(万延元)遣米使節団のポーハタン号と咸臨丸が出航。米大統領と日米修好通商条約の批准書を交換

1867(慶応3)佐賀藩が英学研究のため長崎に蕃学稽古所を設立

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