子どもが関わる痛ましい事件が起きるたびに「いのちの大切さ」を教える必要性が叫ばれます。確かに、死にたくなる子や、「死んでやる」「死んでしまえ」と言ってしまう子もいます。でもそれは、いのちの大切さを知っているからこその言動です。思春期は自己存在の意義を自問、確認する時期で、大人より頻繁にいのちや人生の意味を考えるものです。

 大人は簡単にいのちの大切さを口にしますが、何のいのちがどう大切だと伝えたいのでしょう。思春期の子どもは大人のうそ、社会の矛盾に敏感です。他のいのちを奪わずには生きられないのに、廃棄食品の増加と飢餓のニュースが併存しています。戦争はなくならず、経済と効率最優先の世の中で、大人社会がいのちを大切にしているようには見えません。

 また、いじめや虐待など、死にたいほどつらい目に遭っている自分に気付いてもらえない状況では、「他の子のいのちは大切で、私のいのちは大切でない」と感じる子も多いはずです。

 いのちの大切さの本質に目を向け考えてもらうには、大事な点が二つあります。

 一つは、上から指導する目線ではダメだということ。大人こそいのちをおそろかにしがちであり、その反省に立った願いとして伝えなければ、大人のうそが増えるだけです。「なぜ生きなければならないか?」という問いには、大人も合理的解答を持っていません。もう一つは、ここで言ういのちが「あなたの存在自体(の尊さ)」を指しているということです。

 「いのちは大切だ」と振りかざすのは危険です。産まれてきたこと自体を幸せなことだと教える誕生学などは、幸せ者が幸せを、不幸と感じている者が不幸をかみしめる方向に陥る可能性があります。

 「親を選んで(親に選ばれて)生まれた」や、「先祖や親からもらったいのち」「生まれてきたのがうれしい」といった言葉は、今が充実していれば納得できますが、生きていたくないと思っている子には通用しません。

 今が苦しい子どもたちにも「存在自体が大切」「居場所がある」と感じられる表現を目指したいものです。

(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

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