近松寺境内にある近松門左衛門の墓碑文

◆森おう外の日記に登場

 明治期の文豪森おう外は明治32(1899)年、陸軍第12師団軍医部長として小倉連隊に赴任した。その時の『小倉日記』によれば、明治35年5月19日、徴兵検査巡視のため、柳河(川)から佐賀を経て唐津に入った。

 翌日の視察後、唐津町字表坊主町(現唐津市西寺町)の近松寺を訪れた。境内は荒廃していたが、「近松門左衛門の墓」が目に留まり、住職の寺沢大典和尚にその趺石(ふせき)(墓の足)の所在を尋ねた。

 すると「この墓にはもともとそれはあったが、何者かによって盗まれた。今は戻ってきて庵室に保管している」と言ってそれを見せてくれた。

 「趺は素と上に円石を安じたる者にして(中略)、正方形にして辺の長さ三十四仙米(センチ)、高さ十九米(原文まま、1.9メートルのことか)。翻転して底面を見れば方形(隅円し)に穿(うが)ち窪(くぼ)めたり」とおう外はつづっている。

 底面に刻まれた碑文は漢文105文字で、門左衛門の経歴や遺言によってこの寺に墓が建てられたことなどが書かれていた。

 近松寺にはこれ以外にも曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)が築造したと伝えられる舞鶴園、キリシタン燈籠、唐津小笠原家の菩提寺であったことから小笠原長和(ながよし)(4代)の墓、最後の新撰組隊士小笠原胖之助の墓、そして境内にある小笠原記念館には、老中小笠原長行(ながみち)公に宛てられた徳川家茂・慶喜の親書などが展示されている。

 この寺は唐津はもとより全国的に見ても歴史の宝庫である。観光客はもちろん市民ももっと参拝すべきであろう。

※「森おう外」の「おう」は匡の王が品、右に鳥

このエントリーをはてなブックマークに追加