中島が摸写した古伊万里の文様

中島浩氣

祖父中島浩氣の墓前で思い出を語る雪竹欽哉さん=神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園

肥前陶磁史考の背表紙

中島が生涯をかけた肥前陶磁史考

■有田焼研究の水先案内

 「鬼斧神〓(きふしんさん)に就(な)る英嶽の辺り、皚々(がいがい)として霜嵒(そうがん)の如きもの、これ泉山の磁鉱となす」-有田をはじめ肥前の陶磁器研究の道標として知られる「肥前陶磁史考」はこう書き出す。著者は白川の窯元に生まれた中島浩氣。中島の執念ともいえる研究の集大成は、今も有田焼の歴史の水先案内を務める。

 中島は文政11年の「白川の大火」で生き残った窯元の一つ、中島儀兵衛窯の六代目・精造の長男として1871(明治4)年に生まれる。しかし、実家の窯業にはあまり精力的ではなく、1888(明治21)年、7代当主として廃窯に追い込まれる。

 もともと祖父たちは、窯焼きに不向きだと見抜いていたふしもあり、小学校修了後も家業は手伝わせず、親戚で後の伊万里町長の石丸源左衛門に3年ほど預けた。家に戻っても窯には近寄らず、読書や俳句に明け暮れた。特に読書量はかなりのものだったようで、孫の雪竹欽哉さん(75)には、「図鑑さながらに植物や動物について話してくれた」という。民話なども聞かせ、幼い雪竹さんに「本を読め」と言い聞かせた。

 好奇心も旺盛だったようで町内に最新の石炭窯が築かれた時は、熱心に手伝った。この知識欲、好奇心が大著の執筆につながったことは想像に難くない。1929(昭和4)年、陶磁史考の執筆に入ったときは58歳であったが、基礎になる資料集めや調査はこれより30年以上前から行っていた。

 研究の動機は、窯元同士の縁談で複雑に根を張った皿山の血縁関係を解き明かすことだったという。話し好きな郷土史家の研究がいつの間にか、朝から山の古窯跡にこもり、発掘した磁器を持って家に帰ってくるように。墓碑や寺院、図書館を訪ね回り、陶磁器に関する古資料を調べ尽くすほどになった。

 769ページの本文に窯元の銘や陶器の文様などの図を差し込んだ大作。小見出しの下に年代順に記事を並べ、百科事典のような構成で分かりやすい。歴史はもちろん、技術、流通、制度など窯業を横断的に取り上げ、県内の窯元だけでなく平戸、大村の産地まで取材している。

 地域を代表する名窯だけでなく、肥前陶磁の発展を支えた多くの陶工の功績を並列に記し、私見を抑えた簡潔な文章は、皿山の歴史を克明に伝えている。佐賀中学校長を務め、出版当時の佐賀県立図書館長で郷土史家の千住武次郎は序文で「不滅の好著として世に益すること大なるもの」と評価している。

 銘や文様の模写もほとんどが中島の手によるもの。窯焼きに興味はないが、絵を描くのは好きだったようだ。明治後期には絵付けの仕事で食いつないだ時期があったり、孫のために手作りした動物などの画集に絵筆の才能を見ることができる。

 中島家は家業の廃業から決して豊かとは言えず、中島が研究に打ち込めたのは、産婆として家を支えた妻ワサのおかげだった。1936(昭和11)年9月、ようやく出版にこぎつける。しかし題名の「考」の一字は未完成を意味した。中島はすぐに改訂版の執筆に入る。孫の雪竹さんの目には漢和辞典を片手に筆を執る中島の姿が焼き付いている。

 戦後、佐賀の陶磁史再考の動きが持ち上がり、1955(昭和30)年6月、佐賀県の事業として改訂版が出版されたが、中島は出版の3カ月前、84歳の生涯を全うした。改訂版の題名は「肥前陶磁史」。「考」の文字は取れたが、中島の研究は完結したのだろうか。もうその心を知るすべはないが、中島が残した道標は今までもこれからも、有田焼研究を照らし続けている。

■年表 主な出来事

1871年 ・中島儀兵衛窯の長男として生まれる。幼名は徳一

1888年 ・中島儀兵衛窯が廃業

1902年 ・新式の石炭窯築造を手伝う

1911年 ・ワサと結婚。3度目の結婚

1912年 ・長女多枝子生まれる。子どもは一男三女

1929年 ・30年以上かけて集めた陶磁器研究の資料をもとに「肥前陶磁史考」の執筆を始める

1936年 ・「肥前陶磁史考」出版

1939年 ・長女の夫、雪竹助三の勧めで東京世田谷の雪竹家に転居。陶磁史考の改訂版執筆を続ける

1945年 ・東京大空襲で雪竹家焼失。神奈川県葉山に移り住む

1955年 ・84歳で死去。その3カ月後、陶磁史考改訂版の「肥前陶磁史」出版

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