みやき町の千栗八幡宮(手前)の門前の道が筑後川の旧河川であり、この辺りに千栗の渡しがあった。対岸は久留米市となる

◆河原、幾筋の川広がる難所

 江戸時代以降、肥前から豊前(大分県)彦山に参詣する「彦山道(ひこさんみち)」は数多く確認できるが、戦国時代の天文年間、鍋島清久が彦山参詣をした道筋は知れない。しかし、鍋島清久の一行が彦山参詣に筑後川を渡ることはない。

 明治の鉄道開通まで筑後川に橋はなく渡河はすべて「徒渡(かちわた)し」である。

 大河で氾らんを繰り返す筑後川に現在のような堤防はなく、一帯に広大な河原と幾筋にも分かれた川が広がっていて、渡河点は「千栗(ちりく)の渡し」「神代(くましろ)の渡し」などに限定される。

 これらの「渡し」には砂州・中州を伝って浅瀬をたどる道、飛び石を並べた「岩橋」、舟を並べて板を渡した「船橋」があり、道案内人がいる。

 渡しでは案内人の「賃銭」、岩橋・船橋の「渡り銭」に加え、在地領主が徴収する「津銭(つぜに)・関銭(せきせん)」があり、相当の金銭を要する。

 しかも、彦山は筑後川の西岸にあり東に向かって筑後に渡ると、豊前で再び筑後川を西に渡らなければならない。

 また、戦国時代の肥前にとって筑後の蒲池(かまち)氏・西牟田氏・犬塚氏らは仮想敵であり危害の恐れもある。

 佐賀から彦山へ向かうには神埼郡、三根郡を経て養父(やぶ)郡に入る、ほぼ江戸時代の長崎街道に近い道筋が想定できるが、みやき町の寒水(しょうず)が重要になる。(鳥栖歴史研究会常任講師)

このエントリーをはてなブックマークに追加