「子どものころは厳しい父だったけれど、晩年は孫に囲まれ優しいおじいちゃんだった」と振り返った濱智子さん=佐賀市

20年前、中島さん夫婦の個展で撮った写真。中央が初孫の青風君を抱える父義勇さん。左は母絹枝さん、右は智子さん

小腹を満たすイモを入れ、濱智子さんの父義勇さんのそばにいつもあった器。割れても金継ぎして大事に使った

■父のイモ入れ 穏やかな晩年肌身離さず

 「絵描きなんて乞食(こじき)の仕事だ。真面目に働いてる人のお情けで生きてるようなもんじゃないか」

 絵筆一本で生きていこうとした私にこう言い放った父。六法全書を座右の書にするような堅物で、芸術なんかくだらないと見下していた父が、年を取ってからは焼き物をめでるようになりました。

 お気に入りは焼締(やきしめ)で、特に愛用していたのが握り付きの深皿です。77歳で亡くなるまで十数年使い続けていたのですが、そこにはいつも一つの物だけが盛られていました。サツマイモなんです。

 父は46歳の時、胃の3分の2を切除しました。大食漢があまり食べられなくなり、空腹感に悩まされるようになった。そこで、ふかしたイモを常に手元に置くようになりました。

 イモは毎日、母が大鍋で蒸しました。1年で200キロほどを食べ、それが30年近く続いた。よく飽きないなと思うけど、漁師の家に生まれた父は「戦争中はイモも食べられんやった」と言っていた。それにイモは知り合いの農家が自家用に作っていたものを購入し、細くて不格好だったけど、味は濃くておいしかった。

 晩年は穏やかだった父ですが、若い頃は血の気が多くて、困った人だった。県職員で労働運動を熱心にしていて、飲み屋で議論白熱の末によくけんかをした。母に手を引かれ、夜中に何度かタクシーで迎えに行きました。

 家の中でもいさかいが絶えなかった。気難しくてかんしゃく持ちの父に対し、母も黙って言うことを聞く性格じゃない。食器や家具など、いろんな物が壊れました。

 そんな父も大病を繰り返し、県庁を早期退職してからは別人のようになりました。家でも政治のことばかり考えている「憂国の士」で、笑った顔ひとつ見せたことなかったのに、とても人懐っこくなった。

 私の友人とも仲良くなり、その中に、焼締の器を作る中島浩文さん、美奈子さん夫妻がいた。お酒も飲めなくなったのに、たくさんの酒器を買い求めたのは、私のように芸術で身を立てようとする2人を応援する気持ちもあったようです。

 晩年は子どもが大切なおやつを運ぶように、イモが盛られた器を肌身離さず持ち歩いてました。孫たちと肩を並べ、一緒に頬張っている姿が目に浮かびます。

=余録= 昭和の父親

 ある日のこと、濱智子さんが朝起きて居間に入ると、サイドボードのガラス扉にイカの切り身がくっついていた。前の晩、酔った父義勇さんがすし折りをぶら下げて帰宅。娘を起こそうとして妻に「もう遅いから」と止められ、かっとなって投げ付けたという。

 これとそっくりな話が作家向田邦子さんの随筆にある。すし折りを庭に投げ捨てた向田さんの父も、家の中では「暴君」だった。

 向田さんは「愛」をテーマにしたエッセーの依頼を受け、芝生に散乱したトロや卵焼きを思い浮かべたという。濱さんも、そこに父の不器用な愛を見たのだろうか。

 いずれにせよ、父親が家の中で威張ってるなんて、今では考えられない話だ。昭和は本当に遠くなった。

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