志田林三郎の肖像写真(多久市郷土資料館提供)

■日本電気工学の礎築く

 幕末の1855(安政2)年12月25日、多久領別府村(現在の東多久町別府)にひとりの男の子が生まれました。しかし生まれて間もなく父を亡くし、貧しさの中、母に育てられます。

 母は幼い息子を育てるため、まんじゅうを作って売り始めました。息子は勘定の計算をして母を手伝っていましたが、計算の確かさと利発さが評判となり、近所に住む大庄屋に読み書きを習い始めます。すると48字習って150字を知ったといわれるほどの速さで字を覚え、周囲を驚かせます。

 人々は彼に正式に学問をさせたいと願い、「まさに神童といってもよい子どもで、算術を学んで成長すればきっとお役に立てるだろう」という上申書を役所に提出します。しかし、この上申を審議した役人たちの答えは意外なものでした。

 「確かにすばらしい子どもで、学問をさせるべきである。しかし、算術だけどれほど熟達しても意味がない。まずは儒学を学び、人としての在り方、生き方を身につけなければならない」

 こうして武士身分でもない幼い男の子に毎年5万円ほどの学資が与えられ、多久領の学校である東原庠舎(とうげんしょうしゃ)に進学がかないました。成長した彼は維新後官費を得て、開校したばかりの工部大学校に第1期生として入学、日本初の電気工学者となり、日本電気工学の礎を築きました。

 彼の名は志田林三郎。現在多久市内の小中一貫校3校の校庭には彼の記念碑が建てられ、後に続く子どもたちを見守っています。

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