ロシアの軍艦「ポサドニック号」が侵入した浅茅湾。左中央の岬は芋崎で、ロシアの水兵が小屋や井戸を築いた=長崎県対馬市(対馬観光物産協会提供)

ポサドニック号の水兵が掘った井戸の跡。周辺には小屋なども築かれていた=長崎県対馬市美津島町(対馬観光物産協会提供)

■ロシア不法占拠に混乱

 長崎の対馬にその蒸気船が現れたのは文久元(1861)年2月のことだった。浅茅(あそう)湾に出現したロシアの軍艦ポサドニック号が、「船体修理」を理由に対馬藩に停泊許可を求めてきた。安政5カ国条約の開港対象ではない地での不意の申し出は、対馬藩や、藩の飛び地だった田代領(現在の鳥栖市東部と三養基郡基山町)を混乱に陥れていく。

 藩の上層部は、長崎に行くまでの軽微な修理で済ますことを条件に停泊を許した。速やかな退去を見込んでの決定だったが、ポサドニック号は3月、意に反する行動に出る。水兵がボートで湾内を無断で測量し、警備の役人の制止を振り切って岬の芋崎に上陸し、小屋や井戸を築き始めた。

 対馬藩は猛抗議したが、艦長のビリリョフは意に介さない。英国が前年に実施した対馬海峡の測量を持ち出して「英国が対馬を狙っている。ロシアがそれを防ぐので、芋崎の土地を租借したい」と、藩主宗義和(よしより)への謁見(えっけん)を要求した。

 ロシア側の真の目的は不凍港の確保で、日本海と東シナ海を結ぶ要衝にある対馬の拠点化を狙っていた。覇権をかけた列国のせめぎ合いが激化していたのか、8年前に長崎へ来航したプチャーチンが見せた友好的なムードは消えていた。

 藩内で「打ち払うべき」と主張する強硬派と、紛争を避けて退去を促す手だてを探る穏健派が対立する中、ポサドニック号の水兵は、浅茅湾から島の東側の対馬海峡に抜ける運河にボートで侵入する。運河に設けられていた番所の強行突破を試み、止めようとした警備の農民を射殺。さらに住民数人を拉致し、船に連行した。この暴挙で住民の怒りが沸騰し、攻撃を唱える強硬論が勢いを増した。

 状況は随時、田代領に伝えられた。領内を治める代官の平田大江は「不測の事態に備え、支援体制を早急に構築するように」と本藩から要請を受けた。警備の藩士に支給する兵糧米の準備や大砲の新造、煙硝(火薬)の購入を指示された。

 平田はこのとき、具足50領を新調するなど領内の軍備の強化も進めている。攘夷(じょうい)派だった平田は、田代の兵力を率いて救援に向かう気構えだった。配下の役人らに「覚悟」をもって事態に当たるように求めた通達が、庄屋の文書「袖日記」に残っている。

 <今般御国元(くにもと)え異国船来泊修理いたし度旨(むね)願出、不穏挙動も有之、予(あらかじ)メ覚悟罷(まかり)在候(そうろう)様可被相達候>

 事態の収拾には幕府も動いた。外国奉行の小栗忠順(ただまさ)を派遣し、無断上陸や住民殺害の件をただしたが、藩主に租借を承諾させようとするビリリョフの強硬な姿勢は変わらない。その態度に押されたのか、解決を見ないまま小栗は早々に対馬を離れている。対馬藩は、拒み続けた藩主への謁見を受けざるを得なくなった。

 こうして行き詰まっても、対馬藩は強硬論を押さえ込み、戦闘を避けた。このころ藩の中枢は佐幕派が占め、幕府が進める開国の動きに同調していた。対馬歴史民俗資料館学芸員の古川祐貴さん(31)は指摘する。「中枢にいた一部の者は、事件を機に『国防の最前線は幕府が担うべき』という名目で対馬を幕府に献上し、代わりの領地をもらう転封(てんぽう)を狙っていた」

 このため、平田の出兵の動きは問題視された。本藩の意をくむ田代領の副代官は、思いとどまるように具申したが、平田は4月下旬、有事の際に兵力にもなる役人や庄屋ら300人以上を率いて海を渡った。

 風待ちなどの影響で、約1カ月後に到着した平田は大砲を台場に据える工事に着手したものの、事態は急速に収束に向かう。湾内に英国の軍艦が姿を現した。

 ロシア側の租借要求に対し、対馬藩が「国土の租借は幕府と直接交渉すべき」と拒んで協議が停滞する間、英国が介入を申し出ていた。日本にとって英国も脅威に変わりはないが、強硬な振る舞いをするロシアの軍艦を追い払うことを優先したのだろう。幕府は申し出を受けていた。

 英国との争いを避けたいロシアは8月半ば、芋崎の不法占拠を解き、ポサドニック号も対馬を後にする。

 これを受け、田代領の庄屋らは帰郷が許されたが、平田と一部の役人は足止めをくった。「この事件で藩内の攘夷派と佐幕派の対立が激化し、平田の帰郷にも影響した」と古川さんはみている。平穏を取り戻したかに見えた藩内には、内紛の火種がくすぶっていた。

■飛び地から食料供給

 田代領が対馬藩の飛び地になったのは慶長4(1599)年。それまでは鹿児島県出水郡に飛び地があったが、換地されて田代に移った。

 田代領の石高は約1万石。平地が少なく米の収穫が限られていた対馬本藩にとって、重要な食糧供給地だった。18世紀中頃には九州各地につながる地の利を生かして売薬業が盛んになり、藩は登録制にして税金を徴収した。幕末には櫨(はぜ)栽培も盛んになり、藩財政を支えた。

 代官所は現在の田代小学校の位置にあり、代官、副代官、賄役(まかないやく)の3役が本藩から派遣された。代官の任期は2年程度だったという。

 ほかの役人は、領内の地侍や有力農家の中から採用した。有力農家らは藩への献金で武士の身分を得るケースもあった。対馬藩の飛び地は田代に加え、浜崎(現在の唐津市浜玉町)にもあった。

年表

1853(嘉永6)米国のペリーやロシアのプチャーチンが、開国を求めて来航

1860(万延元)英国船が対馬海峡の測量を実施

1861(文久元)2月にロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来航。土地租借を要求し、無断で拠点づくりを進める。英国の介入を受け、8月に退去

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