村多正俊

唐津小唄を保存する会のメンバーと筆者の村多正俊さん(後列右)

 2015年8月、懇意にしている唐津のおすし屋さんを訪れたことが全てのスタートでした。店主に「唐津小唄」復活に向けての企てを打ち明けられ、すぐさま同意した私。帰京後、店主意中の唐津出身シンガーと打ち合わせをし、権利関係、座組みを整えました。

 以降、歩みは早くなったり、遅くなったりでしたが、16年夏から歯車がかみ合い始め、唐津の旦那衆やおかみさんが加わり、企画は加速していきました。

 そんな状況を受け「ここは最高の復活劇を演出せねば」と売れっ子音楽ディレクターに連絡を入れると快諾。あれよあれよで、日本が誇る三味線奏者に編曲と演奏をお願いすることになりました。

 25年以上、ショービズの世界に身を置いていますが、伝統芸能の第一人者とのセッションは初めて。スタジオの、あの緊張感は未(いま)だもってどうにも筆舌に尽くせないものでした。が、氏が私の母と同郷であることがひょんなことから判明し、一気に緊張がほぐれました。何より旅先にも古唐津の小服茶碗(こふくちゃわん)を持参される唐津ファンであることが氏自身から明かされ、グッと距離は近くなりました。

 以降、制作は順調に進行。大御所とのセッションに僕以上に緊張していたシンガーさんでしたが、マイクを前にするやスイッチが入り、唐津出身者ならではのニュアンスに富んだ唐津小唄に歌い上げ、これ以上無いテイクを録音することが叶(かな)いました。

 ジャケットのデザインも然(しか)り。「古唐津の鉄絵…そう、千鳥でいこう。絵唐津のあの代表的な図柄」という一声で決まり、でした。長らく音楽制作に携わってきましたが、関わる人たちが同じベクトルであると良いものが出来る確率が高まります。今回はまさにそれでした。

 製品サンプルを再生した時の感動は素晴らしいものでした。その時にふっと思ったことが。僕の生まれ育ったまち東京都町田市にこんな歌はあったか、という疑問がそれ。高度成長期に首都圏のベッドタウンとして発展。伝統なんかを無視していた新興住宅地かと思いきや、調べてみると、「町田音頭」なるものが作られていました。

 インターネット上にある音源に触れると、聞き覚えのある節回しに知らず知らずに涙を流す自分がいました。「あった、あった、これだ、これ!」。夏の夕方、遠くに聞こえたそれ。一瞬で当時の記憶が蘇(よみがえ)り、淡い思いを抱いた同級生の浴衣姿やら、やきそばの味やらが脳裏に浮かびました。齢五十を過ぎた男の琴線に触れるには余りあり…。

 もしこの唄が廃れ、存亡の危機にあるのなら、僕も唐津の人々と同じく奮い立つのではないだろうか。第二の故郷である唐津に教えてもらった、そんな心境でした。

 むらた・まさとし ポニーキャニオン勤務。唐津に魅せられ、その魅力を新聞、雑誌、ウェブなどを通じ発信している。東京都世田谷区在住。50歳。

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