徴古館学芸員 富田紘次さん

鍋島直正肖像写真(安政6年)=公益財団法人鍋島報效会所蔵

■徴古館学芸員 富田紘次さん

 佐賀藩の近代化や藩政改革に取り組んだ10代藩主鍋島直正(1814~71年)。改革の動機はどこにあり、幕末期をどんな思いで生きたのか。再建された銅像が4日に除幕されるのに合わせ、鍋島家伝来の歴史資料などを展示する徴古館(佐賀市)の学芸員、富田紘次さん(36)に尋ねた。

■外圧と伝統改革の推進力

 直正は1830(天保元)年に17歳という若さで藩主に就任し、藩政改革に着手した。

たびたび飢饉(ききん)に見舞われた江戸時代後半、経済的な疲弊から、幕藩体制に動揺が広がった。各藩で改革が行われたが、直正公の改革の特徴は佐賀特有の課題を認識し、その解決に向かった点だ。

 佐賀藩ならではの課題といえば長崎警備。直正公が大砲や船を造った理由として、よく言われる外国の脅威という外的な要因があったことは間違いないが、それは一面にすぎない。長崎警備を「家職(かしょく)」だと強く認識していたことも大きい。

 直正公は幼少期に歴代藩主の年譜、遺訓をひたすら勉強している。毎朝、藩祖直茂公、初代藩主勝茂公が残した言葉を周囲の人に読ませて、まず耳で覚えている。長崎警備の強化など藩政改革の底流には、伝統の中に規範を見いだそうとする内的な動機もあった。

 1853(嘉永6)年、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した。佐賀藩は新しく築造した神ノ島、伊王島の台場に藩士が詰め、警備をしていた。直正公は年末に台場近くまで視察に訪れ、幕府の役人から聞いた「ロシア船が佐賀藩の警備に萎縮している」という話を現場に伝えさせた。

 これには、極寒の過酷な状況下、実際の戦闘がない中でも藩士の士気を高める狙いがあった。この年、藩主は現地に赴く義務はなかったが、直正公は2回訪れている。「下支えをしている現場を知ることこそ大切に」という直茂公の遺訓<人間は下程(したほど)骨折り候事(そうろうこと)、能(よ)く知るべし>を実践している。

 外様大名としては、長崎港を警備するという幕府から受けた任務を遂行するだけでよかった。だが、外圧と伝統の影響で、直正公はその範囲を超え、国全体まで視野を広げて長崎警備を位置付けていたとみられる。歴代藩主とは異なる視点を獲得していたと言える。

 藩主としての前半期にあたる天保年間、重臣に対して「一丸となろう」「腹を割って話そう」と何度も呼び掛けていた。外国船という脅威が目の前にある。当番の年には、長崎に派遣された1千人規模の藩士が実際に外国船を目にした。共有された現実感に藩主のメッセージが加味され、藩のまとまりが生まれた。

 幕末の政局で直正は、幕府と朝廷から上京を求められるなど存在感を示したが、中央政界とは距離を置いた。

外様大名の立場への自覚が、禁欲的と言っていいほど強かったと考えている。政局へ積極的に身を投じなかったのは外様だからだし、長崎警備の強化を徹底したのは佐賀藩主としての任務だから。立場や任務に忠実で、国政においても秩序や伝統を重んじていた。

 長女の貢姫(みつひめ)への手紙には、江戸城下でオランダ人や米国人が馬で闊歩(かっぽ)している状況を「江戸は遠からず異人ばかりになるでしょう、イヤなことです」と書いている。一方、同じ手紙の中で長崎巡見に触れた箇所では「今回は毎日のようにオランダ人に会い面白かった」とも記している。

 一見矛盾しているようだが、「伝統」というキーワードで読み解くと、相反するような心情が同居するのも理解できる。長崎での外国人との交流は200年以上の歴史、伝統があり、知的好奇心も満たされて面白く感じただろう。だが、将軍のお膝元まで外国人が来るのは、伝統が乱されるようで許せなかった。

 直正公は外敵を撃退しようと考える攘夷(じょうい)の急先鋒。伝統が守られる形での交流かどうかが重要だった。排他的ではなく、国の秩序を乱す形での開国は認められないということ。この現実的な感覚が先進的だった。

 外様という立場を守りつつ、長崎に台場を造る資金などを巡って幕府と交渉もしている。幕府の言う通りにするわけではなく、幕藩体制の枠内でしっかりとものを言った。藩主という立場を貫きながら、佐賀にしかできないことをやった。

 佐賀にとどまって物事を考えた直正の生き方は、「地方の時代」と呼ばれる現代での処し方とも重なる。

佐賀の七賢人に代表されるように、明治政府で活躍した人は大勢いる。私たちは、中央で活躍した佐賀出身者を誇りに思っている。

 そうした中、直正公は中央に出ない道を選び、日本全体を佐賀から考えた。土地としての佐賀だけでなく、佐賀藩主、外様大名の立場にこだわった。

 簡単に枠を飛び出すのではなく、与えられた立場の中でどれだけ頑張るか。直正公の生き方はそういう意味で、現代に暮らす私たちにも示唆を与えてくれる。

 とみた・こうじ 鍋島報效会・徴古館主任学芸員。1981年、熊本市生まれ。同志社大、同大学院で日本美術史を学び、2008年から同館学芸員。収蔵品の調査や鍋島家の歴史研究に取り組んでいる。佐賀市。

■鍋島直正の銅像、4日に除幕

 鍋島直正の銅像除幕式は4日午前11時半から、佐賀市の佐賀城鯱(しゃち)の門北側広場で開かれる。官民でつくる再建委員会(井田出海会長=佐賀商工会議所会頭)が、生誕200年を記念して2014年から募金活動に取り組み、完成させた。列席者の代表や地元の小学生らが除幕し、カノン砲が祝砲を上げる。参観は自由。

=年表=

1814   鍋島直正(幼名貞丸)誕生

(文化11)

1825   直正が将軍家斉の娘・盛姫と結婚

(文政8)

1830   9代藩主斉直が隠居し、直正が10代藩主に就任。佐賀に初入部

(天保元)

1835   佐賀城二の丸が焼失

(天保6)

1838   佐賀城本丸御殿が再建

(天保9)

1840   アヘン戦争(~1842年)

(天保11)

1850   大銃製造方を設置し、築地で反射炉建設に着手

(嘉永3)

1852   精煉方を設置

(嘉永5)

1853   ペリーが浦賀来航

(嘉永6)  ロシアのプチャーチンが長崎来航

1861   直正が隠居し、鍋島直大が11代藩主に

(文久元)

1865   三重津海軍所で日本初の実用蒸気船「凌風丸」完成

(慶応元)

1867   大政奉還

(慶応3)  王政復古の大号令

1868   戊辰戦争(~1869年)

(明治元)  明治改元

1871   直正が死去

(明治4)

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