古賀利渉が小城藩を脱藩する前に残したとされる和歌(小城市歴史資料館所蔵)

古賀利渉の生家に近い禅寺、清浄院にある「祇園太郎之碑」を守っている金丸允昭さん=小城市小城町

■攘夷に傾倒、秘密裏に行動 しのぶ碑文公卿つづる

 大庄屋のあるじがこつ然と姿を消したのは、安政5(1858)年8月のことだった。小城郡西郷(現在の小城市小城町南西部)の屋敷を3人の小城藩士が訪れた後、当主の古賀利渉(としみつ)が行方をくらませた。

 利渉は天保4(1833)年生まれ。幼いころから学問が好きで、小城藩の藩校興譲館で学んだ。20代半ばで家督を継ぐと、庄屋の職務の一切を取り仕切るなど才覚を発揮した。

 その利渉が、藩の政治姿勢とは相いれない尊王攘夷(じょうい)の思想に染まっていた。言動を問題視した藩から切腹の勧告を受け、脱藩した。

 進出してくる欧米列強を排除しようと考える攘夷論が全国に広まりつつあった。嘉永6(1853)年の黒船来航以降、急速に拡大し、外国との通商条約に反対する反幕府勢力の志士や朝廷の公卿(くぎょう)らがこの考えを支持するようになる。

 佐賀藩は、幕府を支える佐幕的な傾向が強かった。10代藩主鍋島直正は幕末の一時期、朝廷と幕府を結びつけて幕藩体制の維持を図る「公武合体派」として行動したとの見方もある。枝吉神陽ら藩士が嘉永3年(1850)年、政治結社「義祭同盟」を結成して攘夷を訴えた後も、慎重な姿勢は崩さなかったようだ。

 支藩の小城藩も本藩と同様の考えで、声高に尊王攘夷を唱えることは、藩を批判することにつながった。

 利渉が脱藩の際に残したと伝わる2首の和歌がある。竹林に囲まれた生家を去る心境に加え、熱くたぎる思いを抑えきれない若者の心情がつづられている。

 <旗竿(はたざお)に伐(き)るや此時我園(このときわがその)の竹のむら立伐るや此時>

 <父母は我(わ)が行方を知らぬ火の燃(もゆ)る思ひに身を焦すらん>

 脱藩した利渉は、播磨国(現在の兵庫県南西部)の儒学者、河野鉄兜(こうのてっとう)に弟子入りした。鉄兜は諸藩の志士とつながりがあった人物で、利渉は鉄兜の紹介で京都や大阪にたびたび足を運び、志士たちと交流を深めた。

 播磨で3年ほど過ごした後は長崎に移り、各藩の情報を収集していたとみられている。長州藩士との人脈もでき、長州との間も行き来するようになったのはこの時期で、脱藩者という素性を隠すためか、「祇園太郎」の別名を使い始めた。

 利渉は長州藩士桂小五郎の紹介で文久3(1863)年、朝廷の教育機関で京都にあった学習院に出仕し、尊王攘夷派の公卿だった正親町公董(おおぎまちきんただ)らの知遇を得たとされる。正親町家の文書によれば公董が同年、攘夷実行を各藩に促す勅使として九州に向かった際に随行を命じられており、信頼は厚かったようだ。

 ただ、旅は短かった。この年、薩摩藩などの公武合体派が、尊王攘夷派の長州藩士や公卿を京都から追放する「八月十八日の政変」が起き、公董は召還命令を受ける。体調を崩していた利渉は九州に留まり京都に戻ることはなかった。

 佐賀藩で副島種臣らさまざまな人物と密会し、近隣藩の有志とも会合を持ったと伝わるが、史料は残っていない。病気が悪化すると小城に戻り、慶応2(1866)年に亡くなった。

 尊王攘夷に傾倒した端緒を含め記録が乏しい利渉。桜田門外の変に加わった水戸藩士ともつながり、長州滞在時には奇兵隊に入ったという逸話も残るが、奇兵隊の名簿に名前はなく、行動は謎に包まれている。

 佐賀藩の家老、鍋島夏雲の日記が数少ない手掛かりだ。そこには「元大庄屋で亡命した祇園太郎が三百諸侯の情報を送ってくる」という趣旨の記述がある。尊王攘夷などを巡って「藩として統一した動きができそうなのは長州などわずか。島津(薩摩藩)は家来をうまく使っている。御国(佐賀藩)は日和を見て、世を欺いていると他藩はみている」と報告している。

 「志士としての活動とは別に佐賀本藩から密命を受け、情報収集役を担っていたのではないか」。小城郷土史研究会の岩松要輔会長(77)はこう推察し、続ける。「脱藩という重罪を犯したのにも関わらず、処罰を受けず、晩年に小城へ戻れたことも説明がつく」

 記録が乏しい一因は、こうして秘密裏に行動する必要があったからかもしれない。先行きが見えず、誰もがより確かな情報を求めた幕末、利渉の存在価値もそこにあった。

=しのぶ碑文公卿つづる=

 古賀利渉の生家に近い禅寺、清浄院には、利渉の墓「祇園太郎之碑」が残る。この碑を守る金丸允昭さん(78)=愛知県名古屋市=は、利渉のいとこの子孫に当たる。「子どものころ、よく墓を磨かされた」と懐かしそうに振り返る。

 碑は大理石製で、高さは約3メートル。「八月十八日の政変」で京都から追放された尊王攘夷派の公卿の一人、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が題字を書いた。建立に合わせて「天かける みたまうれしと 思うらん けふのまつりの そのまごころを」という和歌も寄せている。

 この碑の前で大正初期に営まれた50回忌法要では、利渉の実子や、利渉の脱藩後に庄屋を継いだ親族らが参列し、遺品を並べてしのんだという。

1850(嘉永3) 枝吉神陽が中心になり「義祭同盟」を結成

1853(嘉永6) ペリーの米軍艦4隻が浦賀に来港し、開国を求める

1858(安政5) 古賀利渉が和歌2首を残して小城藩を脱藩

1863(文久3) 公武合体派が尊王攘夷派を京都から追放した「八月十八日の政変」が発生

1866(慶応2) 古賀利渉が死去

 ■次回は武雄領や、領主の鍋島茂義が導入した西洋砲術を取り上げます。

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