「色絵芙蓉草花文蓋付鉢」■データ 高さ:18.8センチ 径:31.2×23センチ、21.7×16.0センチ(蓋) 制作年:1879~90年 制作:香蘭社

「芙蓉」 染付の繊細な絵付け。芙蓉の花は淡く、葉はくっきりと描いている。葉脈にはアクセントとして金彩を施している

「草花」 夏から秋にかけての草花を繊細に描き、日本的な情緒を醸し出している

1888年のバルセロナ万国博覧会で香蘭社製品が金賞を受賞した時の賞状(香蘭社蔵)

■西欧にジャポニスム旋風 日本風のエキゾチックな絵付け

 VOC(オランダ東インド会社)時代の勢いに陰りを見せていた有田焼だったが、明治期に入ると、日本の殖産工業製品としてヨーロッパで再び息を吹き返した。政府初参加のウイーン万博(1873年)を皮切りに、フィラデルフィア万博(76年)、第3回パリ万博(78年)で大評判を呼び、ジャポニスム(日本趣味)を呼び起こした。明治期の有田をリードした香蘭社はフィラデルフィア万博で褒状、第3回パリ万博とバルセロナ万博(88年)の金賞など輝かしい経歴を持つ。賞状は残っているが、残念ながら出品作の所在は不明。79~90年代に作られた「色絵芙蓉(ふよう)草花文蓋(ふた)付鉢」など同時期の作品が、当時の栄華をしのばせる。

 ウイーン万博では政府の援助があったが、フィラデルフィア万博からは窯元の自費出品となった。資金力のない有田の窯元は出品をためらったが、岩倉使節団に同行した久米邦武が尽力。有田の有力な窯元や商人に、製造から販売まで手掛ける「カンパニー」の必要性を説いた。深川家の八代目栄左衛門ら有志がその要望に応え、75年に「合本組織香蘭社」を設立した。

 長く続いてきた幕藩体制が終わり、海外市場への自由な参入が可能となり、有田の陶業者たちの生産意欲が極度に高揚する中、万博向けの名品が生まれた。同時期、栄左衛門の指導下で陶工たちによって作られた「色絵芙蓉草花文蓋付鉢」は煮物やシチューを入れるための洋食器で、西欧人の嗜好に合わせている。

 口縁部や側面、蓋に染付と色絵や金彩でびっしりと草花文が施されている。芙蓉や菊、萩、桔梗(ききょう)、薄(すすき)など夏から秋にかけての草花と、それらの回りを飛ぶチョウを柔らかい筆致で表現している。同時期に制作されたほかの香蘭社製品と比べると、大輪の花を付けた芙蓉や薄の葉など、染付の青がくっきりと映える。染付の面積が広いせいか、しっとりと落ち着いた印象を与えている。

 現在、「色絵牡丹草花文蓋付鉢」は「明治有田 超絶の美」展で全国を巡回している。企画した九州陶磁文化館の鈴田由起夫館長は「この鉢が万博の出品作だったのかは不明だが、保存状態がかなり良い」と指摘。楕円形の鉢について「有田伝統のろくろではなく、西洋の窯業技術を導入し、石膏型鋳込(いこ)み成形法を使ってなめらかな造形美を生んでいる」と高く評価している。栄左右衛門は78年の第2回パリ万博への渡欧に際し、フランス製の製陶機一式を購入している。

 同展に携わった兵庫陶芸美術館の梶山博史学芸員は「日本風の繊細な絵付けが、ヨーロッパではさぞかしエキゾチックに映ったのでは」と話している。

 ヨーロッパで新風を巻き起こした香蘭社だが3年後、碍子(がいし)生産と併用することで経営の安定を図ろうとする栄左衛門と、美術工芸品と洋食器に特化していこうとする辻勝蔵、手塚亀之助、深海墨之助・竹治らと意見が合わず、辻らは精磁会社を設立して分離した(89年解散)。分裂した両社だったが、しのぎを削り合い、有田に第2の黄金期をもたらした。

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