工房で作陶に励む人間国宝の十三代今泉今右衛門さん=1999年3月30日、有田町の今右衛門窯

十三代の収集した古伊万里の陶片の前に立つ十四代今泉今右衛門さん。十三代は有田の古窯跡発掘調査に立ち会ったことから陶片に興味を持ったという=有田町の今右衛門古陶磁美術館

日本陶芸展で最高賞の秩父宮賜杯を受賞した「色絵薄墨露草文鉢」(1981年、高さ21×径38㌢)

肥前陶磁器研究会の発掘調査に立ち会い、初期伊万里の陶片に興味を抱くようになった十三代今泉今右衛門さん=1955年、有田町

■「吹墨」「薄墨」技法を展開

 色鍋島に新しい息吹を吹き込むとともに、佐賀県陶芸協会会長や日本工芸会の副理事長として陶芸界をリードした十三代今泉今右衛門さん(1926~2001年、享年75)。伝統の継承にとどまらず、初期伊万里の吹墨や薄墨の技法を色鍋島に取り入れ、“江戸の美”を“現代の美”に昇華させた。1989年には県内2人目、有田町では初となる国重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、町民を喜ばせた。

 今右衛門家は江戸中期から栄えた佐賀藩御用窯で、「色鍋島」と呼ばれる色絵磁器の上絵付けを専業にした。今右衛門家の長男として生まれ、有田工業高から東京美術学校(現・東京芸術大)工芸科に進んだ。家業を継いだが「白磁は冷たく古くさい。色鍋島は裃(かみしも)を着たように堅苦しい」と伝統技法に反発していた。

 初期伊万里の持つ土もの風の“ざっくり”とした雰囲気にあこがれ、当初は日展に土もの風にした前衛的な作品を出し、先代を嘆かせた時期もあった。

 先代から頼まれた洋画家の石本秀雄さん(故人)らから「本腰を入れ色鍋島の仕事をすべき」と説得され、伝統の継承に力を入れ始めた。71年には「色鍋島技術保存会」が、国重要無形文化財の総合指定を受けた。

 その矢先、75年に先代が急逝。十三代今右衛門を襲名した。十三代らしい新たな作風を模索するが苦戦。そんな中、目を付けたのが呉須(ごす)を吹き付けた初期伊万里の「吹墨」技法だった。初期伊万里では部分的に使われる技法だが、あえて全面に施した。さらに紬(つむぎ)のような肌触りを求め、「薄墨」の技法も確立。「吹墨」技法で使う呉須の代わりに酸化ウランを施した。鍋島の技術革新をかつてない規模で成し遂げ、後日エッセーで「本当の美しさが少しずつ分かり、鍋島の中に現代を発見した時、生きている伝統を見る思いがした」と述べている。

 この技法を用い、日本陶芸展(81年)に出品した「色絵薄墨露草文鉢」は、最優秀の「秩父宮賜杯」を受賞し、大きな反響を呼んだ。背景を薄墨の灰色で埋め、ムラサキツユクサが薄闇に幻想的に浮かび上がる。赤や黄、緑と染付しか使えないという観念を打ち破り、ラフでざっくりとした色鍋島が誕生した。

 さらに雲地紋を背景に使うようになり、重厚さが増した。88年に毎日芸術賞、MOA岡田茂吉工芸大賞を受賞。89年には63歳で人間国宝に認定され、色絵磁器の頂点にたった。また県陶芸協会会長や有田窯業大学校長も歴任。国際アカデミー(IAC)総会や世界炎の博覧会(96年)の開催にも尽力するなど業界の発展に大きく寄与した。

 十四代今右衛門さんは「ざっくばらんな人で、人間性あふれる人だった」と亡き父を振り返る。取材時は必ず十四代を同席させ、第三者との会話を通して息子にメッセージを送っていたという。「伝統は相続することができない」-。そして亡くなる直前に受けた取材で作家にとって一番大切なものはと聞かれ、「人間性だよ」と即答したという。

■年表 主な出来事

1926年 十二代今右衛門の長男に生まれる。

1949年 東京美術学校(現・東京芸大)工芸科を卒業し帰郷。

1957年 日展入選。

1971年 「色鍋島技術保存会」が国重要無形文化財総合指定の認定を受ける。

1975年 十二代死去により十三代今右衛門を襲名。

1976年 日本陶磁協会賞を受賞。「色鍋島技術保存会」を新たに改組。

1981年 日本陶芸展で「色絵薄墨露草文鉢」が最優秀賞(秩父宮賜杯)を受賞。

1982年 佐賀県陶芸協会長に就任、97年まで務める。

1986年 佐賀新聞文化賞を受賞。

1988年 毎日芸術賞、MOA岡田茂吉工芸大賞を受賞。

1989年 色絵磁器で国重要無形文化財保持者に認定。

1993年 有田窯業大学校校長に就任、2001年まで務める。

1999年 勲四等旭日小綬賞受賞。

2000年 日本工芸会副理事長に就任。

2001年 10月13日に死去。

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