ヨーロッパから里帰りした古伊万里を並べた「蒲原コレクション」を眺め、当時を振り返る尾﨑葉子・有田町歴史民俗資料館館長=有田町の県立九州陶磁文化館

収集した古伊万里約100点を有田町に寄贈した蒲原権さん

古伊万里の買い付けにヨーロッパを訪れ、記念撮影する蒲原権さん(右)と蒲地昭三さん=1975年、スイス・ジュネーブのレマン湖畔(図録「欧州貴族を魅了した古伊万里」より)

元禄美人が描かれた壺。割れていた口縁を修復し、シェードを付けてランプにしている。蒲原権さんは、里帰りした元禄美人に何を語りかけたのであろうか=有田町の蒲原さん宅

■ヨーロッパの古伊万里収集 金襴手様式など有田に寄贈

 佐賀県立九州陶磁文化館(有田町)の一角に、ヨーロッパから里帰りした古伊万里を並べた華やかな展示室がある。有田町の実業家蒲原権(かんばらはかる)さん(1896~1987年、享年91)がヨーロッパ各国を回り、骨董(こっとう)屋で買い付けた江戸中期の逸品だ。蒲原さんは、有田町歴史民俗資料館建設に伴い、数億円の私財をかけて集めた古伊万里のほとんどを有田町に寄贈した。現在は九州陶磁文化館に寄託され、「蒲原コレクション」として、有田焼の歴史を華やかに伝えている。

 蒲原さんは三井物産退社後、佐世保市で会社設立に参画し、長年にわたり経営に携わった。その蒲原さんが収集を始めたきっかけが面白い。子息の健次さんや有田焼商社「賞美堂本店」を経営していた蒲地昭三さん(故人)の著書によると、蒲原さんは三井物産大阪支店時代、陶磁器マニアの上司宅に招かれたが、床の間の有田焼に興味を示さなかったという。それを見た上司は「有田出身なのに、この素晴らしい工芸品に関心もないのか。君には郷土愛がない」と怒りだしたそうだ。蒲原さんは反省し、関西各地の骨董屋を回って古伊万里を勉強するようになったという。

 蒲原さんは有田焼への造詣が深まるにつれ、「故郷に国際級の陶磁美術館を建てたい」との思いを強める。「美術館を早く実現させるには自らヨーロッパに渡り、古伊万里を収集するしかない」と思い立った。

 74年には古伊万里里帰り展を福岡で開く計画が浮上する。中心メンバーだった蒲原さんは、その会合に出席した帰りの車中で不思議な夢を見る。古伊万里の沈香壺(じんこうつぼ)に描かれた美女が現れ「有田に連れ帰ってください」と哀願したという。

 蒲原さんはその年、蒲地さんとヨーロッパを回り、アムステルダム、パリ、ロンドンを訪問。2億とも3億円ともいわれる私財を投じ、金襴手(きんらんで)様式や柿右衛門様式の肥前磁器を中心に大皿や大鉢、沈香壺など134点を買い付けた。オランダ東インド会社(VOC)の商号の入った皿やシャンデリアやランプに改良された器、調味料セット、ひげ皿などバラエティー豊かな構成になっている。

 ヨーロッパを数度にわたり訪問し、収集した古伊万里は、地元のギャラリーに展示した。76年、有田町に歴史民俗資料館建設が計画されるにあたり、収集品から約100点を厳選して町に寄贈した。当時、新米学芸員として館の設立に携わった尾崎葉子館長は、蒲原さんが「地味な壁紙では古伊万里がかわいそうだ」と展示室の内観に厳しく注文する姿を見て「仕事に厳しい人という印象を受けた。それだけ郷土への愛情が深かったということの裏返しだったのでしょう」と当時を振り返った。

 同時期、当時の町長ら有志が国際陶芸美術館の建設を陳情。全国的に巻き起こった古伊万里ブームを追い風に80年、九州陶磁文化館がオープンした。収蔵品数はわずか82点だったが、「蒲原コレクション」を借り受けて何とかスタートした。現在、「柴田コレクション」とともに常設展示され、館の2大コレクションとして全国の焼き物ファンの目を楽しませている。

■メモ

沈香壺 ふたの付いた磁器製大壺。香料を入れ、芳香が満ちたころ、ふたを取って室内に香気を放つのに使った。

■年表 主な出来事

1896年・有田町赤絵町にあった宿屋「佐賀屋」の長男として生まれる。

     ・有田尋常高等小学校-龍谷中学(佐賀市)卒。

1920年・長崎高等商業学校(現・長崎大)を卒業し、三井物産に入社。

1948年・佐世保市で西日本鋼業設立に参画。57年から80年まで社長を務める。

1964年・有田町文化財保護審議会の委員に就任。以後、委員や委員長を歴任。

1974年・ヨーロッパ各国を回り、古伊万里を買い付ける。

1976年・有田町にコレクションを寄贈。

1980年・九州陶磁文化館が開館。「蒲原コレクション」として常設展示する。

     ・有田町名誉町民となる。

1987年・91歳で死去。

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