「め」の文字を書いた絵馬や白布が奉納された観音堂。独特の雰囲気が漂う=唐津市七山の観音の滝

◆広沢局治癒の言い伝え

 「英雄色を好む」ということわざがあるが、豊臣秀吉もその例に漏れず、希代の好色漢であった。『伊達世臣家譜』によれば、秀吉の正妻の「於寧(おね)(寧々(ねね))」(北政所)の他に16人の愛妾(あいしょう)がいたという。

 主な女性と言えば、織田信長の妹のお市の方の三女茶々(淀殿)、元武田元明の正室であった松の丸殿、前田利家の三女加賀殿などである。

 秀吉が名護屋に来た時、広子という松浦随一の美女について、20歳であること、名護屋城普請の元となった垣添城主名護屋越前守経述(つねのぶ)の妹であること、しかも経述は上松浦党一族であることなどを知った。

 そこで広子を側室に迎え、山里丸の一画に広沢寺を建て、寵愛(ちょうあい)したという。

 『鳴滝山福聚院縁起録』によれば、文禄3(1595)年2月、広沢局(広子)は目の病に悩み、薬の効果もなかった。そこで経述の家臣垣添加賀守と酒井備中守が、秀吉に七山村の鳴滝山の観音が目の病に霊験あらたかなることを申し上げると、秀吉は広沢局と両名を鳴滝山に向かわせた。福聚院聖観音の法師は21日間の滝行を行い、大般若経を繰り、護摩を焚(た)いて祈念した。おかげで広沢局の目の病も平癒したという。

 こうした故事から現在でも、七山の観音の滝そばの「生目観音堂(いきめかんのんどう)」には多くの「め」の文字を書いた絵馬や白布が奉納され、ある種特別な雰囲気を醸し出している。

 滝行とは今でも密教や修験道、神道の修行方法の一つとして行われているものである。自然と向き合い自然と一体化するための体験だが、自然科学の発達している現代でも迷信と一言で片付けることはできない。

=略歴=

 田中誠 ▽たなか・まこと フリーの編集者で、民俗学、歴史を中心に編集・執筆活動を行う。1954年生まれ。唐津市桜馬場。

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