東京で開かれたテーブルウェア・フェスティバルで人気を呼んだ食器を手に取る廣田和樹社長=波佐見町の窯元「和山」展示場

■有田焼の裏方から脱却 民間主導、10年で変革

 有田焼の裏方に甘んじてきた産地の面目躍如だった。

 東京ドームで今年初めに開かれた日本最大級の食器の祭典「テーブルウェア・フェスティバル」。全国の焼き物産地から集まった約250店の中、長崎県の波佐見焼のブースには若い女性が詰め掛け、支払いを待つ長い列ができた。「ここまで知名度が上がるなんて」。波佐見町の窯元「和山」の廣田和樹社長(48)は感慨深く見入った。

 波佐見焼は、江戸期には積み出し港の名前から「伊万里焼」、明治期以降は、運び出した鉄道の駅名から「有田焼」として流通してきた。有田焼が料理店用の高級食器で売り上げを伸ばした昭和期に入ってからも、値頃感が求められる家庭用は量産技術に優れる波佐見が下支えをしてきた。

 1990年代、廣田社長は波佐見焼の知名度不足にがく然とした記憶がある。東京の大手スーパーのチェーン店100店舗で開いた催事「波佐見焼400年祭」。食器に「波佐見焼」と記したシールを貼ったが、全く売れない。「有田焼」に貼り替えると、客足が伸びた。「ブランドイメージで水をあけられていた。岐阜の美濃焼には価格では勝てない。このまま有田焼として売っていくしかないと思った」と振り返る。

 この流れは2004年、変わり始める。牛肉の産地偽装が社会問題化し、窯業界でも産地をどう位置付けるかが議論になった。従来の枠組みで産地ブランドを立ち上げようとしたが、有田側から色よい返事はない。「波佐見焼」として独立を余儀なくされた。

 ブランド化の過程で鍵になったのが「テーブルウェア・フェスティバル」だった。以前は会社単位だった参加を、04年から波佐見焼として取りまとめて出展した。3年後にはフェスティバルのプロデューサーに商品開発の助言を依頼し、「カジュアル」「リッチ」という産地としての共通コンセプトを決めた。窯元約20社を年7回にわたって訪問してもらい、現代のニーズに合っているかチェックしてもらうようになった。

 バイヤーや店員、芸大生に製造工程を伝える講座など、知名度を上げるさまざまな取り組みを10年間続けてきた。主導するのはあくまで業界団体。長崎の工芸品として独立した04年以降、県や町が支援を始めて日が浅いだけに、危機感に似た自立心が民間に湧いた。

 「行政に甘えず、自分たちで知恵を出し、汗をかくから急成長したんだろう」。有田町の商社経営者はこう推し量り、補助金を受けて新製品を開発した過去の有田焼の事業を顧みる。「今は変わったけれど、売れなくても誰も責任を取らない、作って終わりという時代があった」

 波佐見にはさらに、有田も一目置く秘策があった。

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 消費の低迷で新たなファン層の獲得に苦心する有田焼産地。有田焼創業400年連載の最終章となる第5章では、県外を含めた焼き物産地の試み、新たな動きを追い、将来を展望する。=次回から社会面に掲載

 ■波佐見焼 長崎県波佐見町で作られている陶磁器。大村藩が文禄・慶長の役(1592~1598年)で連れ帰った朝鮮陶工・李祐慶が創始したとされる。諸藩に献上する青磁から作り始め、江戸後期には、高級品だった染付の碗皿(わんざら)を庶民向けに量産し、「くらわんか」の名前で愛された。2014年の産地生産額は46億円。バブル景気でピークだった1991年(175億円)の4分の1まで減少したが、最も厳しかった11年(41億円)から持ち直している。

=有田焼400年=

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