祭りの呼び名の由来になった鉦風流。重さ16キロの大鉦を片手で持ち上げ、舞い鳴らす=基山町の老人憩いの家前

獅子舞は子どもが唐子風の獅子つりを務め、大陸からの影響を感じさせる

災拂は、しま模様の衣装を着た子どもが激しい棒術を披露する

御仮殿前での芸能の奉納が終わると、みこしの行列は荒穂神社へと戻っていく

荒穂神社

■太鼓と鉦の音が呼び名に

 雨上がりの、秋めいた空に向かって、男衆がこぶしに結わえた大鉦(おおがね)を突き上げる。基山町で毎年、秋分の日に開かれる荒穂神社の御神幸(みゆき)祭。土地の人たちは「どんきゃんきゃん」と呼ぶ。

 「どん」は太鼓、「きゃんきゃん」は鉦の音。重さ16キロもの大鉦を片手で持ち上げ、表情一つ変えず悠然と舞い鳴らすその響きは、愛想のない「カン、カン」ではなく、「キャン、キャン」と聞こえるから不思議だ。

 祭りをはやす擬音が、そのまま呼び名として定着しているのは、県内では伊万里トンテントンや小城のシャンシャン祭りなどが知られている。祭事本来の名前が持つ意味より、音そのものに親しんできた地域性の表れだろうか。

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 実は、「どんきゃんきゃん」という同じ呼び名の祭りは、周辺の福岡県境の地域にもいくつか残っている。同町の郷土史家松隈嵩さん(89)は「この辺りでは、『浮立』ではなく『風流』と書く。時代時代に新しいものを取り入れる流儀のことで、呼び名の共通性も、そんな進取の気風と関係がありはしないか」と推測する。

 確かに、この祭りで住民たちが奉納する芸能の多様さは、「新しいもの」を取り入れてきた歴史を感じさせる。呼び名の由来となった「鉦風流」だけでなく、しま模様の衣装をまとった少年らが激しい棒術で厄よけをする「災拂(さいばらい)」、唐人風の獅子つりが登場し、大陸の影響が色濃い「獅子舞」と、それぞれにショーアップされ、見飽きるところがない。

 約500年前の文献にも記されているこの祭りは、1957(昭和32)年に一度、途絶えた。ちょうど日本が高度経済成長期を迎えたころ、福岡都市圏に近接したこの地域は、すでに祭りの担い手不足に直面していた。

 復活したのは「明治維新100年」の祝賀ムードが高まっていた68(昭和43)年。その2年後には、獅子舞が大阪万博にも出演、「あの時は涙が出るほどうれしかった」と住民たちは今もなつかしがる。

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 今年の祭り当日。獅子舞で獅子つりの大役を務めた3歳児は出番の途中、大人のひざの上で眠ってしまった。昨年まで小学生の役割だったが、卒業していなくなり、「ひいじいちゃんの地元」という縁で、鳥栖市から狩り出されたのだとか。

 祭りを担う地域の事情はいずこも同じ。男性しか参加できないため、町外の親戚縁者を頼って、どうにか頭数をそろえている。

 「小さな子からおじいちゃんまで、しっかりとした縦のつながりで続いてきた祭り。どちらが欠けても成り立たない」。祭りを取り仕切る総代会長の大山軍太さん(78)は言う。

 離れて暮らす家族が年に1度、祭りのために一つに集う。伝統を守り継ぐための、住民の労苦は並大抵のものではなかろうが、時代とともに薄らぐ家族の「縁」を見直す場として、祭りの存在意義はあるのかもしれない。

<余録>荒穂神社

 御神幸祭が開かれる荒穂神社は、基山(きざん)南麓にあり、平安時代前期(9世紀中頃)の文献にも名前が記された歴史ある神社。祭り当日は、早朝から境内で芸能が奉納された後、約2キロ離れた町老人憩いの家前の御仮殿(お旅所)へと道行きが行われる。芸能が奉納され、多くの見物客が集まる御仮殿から、基山山頂(標高405メートル)を仰ぐと、もともと神社があったとされる付近に、「タマタマ石」と呼ばれる花こう岩の巨石が見える。

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