「華やかでもなんでもなかった」-作った服をセレクトショップに売り込んでも、20代前半の店員に門前払いを食らい続けた。そんな中でも服を置いてくれる店があり、「服が売れた」との連絡や街中で自分の服を着た人を見かけることで手応えをつかんでいった。

 独立から3年後の2004年、当時あまり使われていなかった麻や絹などの天然素材を使う自身のブランド「JUNYA TASHIRO」を立ち上げる。

 この頃、牛津高の服飾デザイン科卒で、職業系短期大学の工場で縫製を経験した石橋はるみさんと出会う。友人の結婚式の2次会で偶然隣に座った2人は、福岡で開催されたアジアコレクション(当時、福岡県美容生活衛生同業組合主催)で初タッグを組んだ。独学だった田代さんのデザインに、パリ・コレクションで発表された服を縫った経験もある石橋さんの縫製が加わった。

 ブランドコンセプトは「着るほどに柔らかくなって体になじみ、洗うほどにいい風合いになっていき着る人と共に成長していく服」。服の質や取引先を審査され、06年に日本最高峰のファッションショー東京コレクション(日本ファッション・ウィーク推進機構主催)に出品が決まる。

 再び睡眠時間3時間の生活が始まった。「デザインは生き物」、食事中もシャワー中も常に新しいデザインを考えて、差し替えを繰り返して枕元にメモも置いた。「最初で最後のコレクション。最高の服を作りたい」という一心だった。

 また、主催者から与えられるのはショーの時間だけ。会場もモデルも何もかも自分たちで手配しなければならなかった。ショー当日も慌ただしく、舞台裏で服やヘアメークの最終チェックに追われた。デザイナーはいつも、自分のショーすら見ることができない。ショーの様子は後日、録画したものをDVDで鑑賞した。

 経費は安く見積もっても500万~800万円。ショーに出ても報酬はないが、華々しい経歴は残る。ショーの後に開催する展示会での受注や、東京コレクションを機に舞い込んだ制服のデザイン、専門学校の講師といった仕事で採算を取った。

 服は作って終わりではなく、そこに自分の世界観を落とし込みながら流行を生み出すことができる。「1回出れば終了だと思っていたが、終わってみるともう1回出たいと思ってしまうもの」。それから春と秋にある東京コレクションに11回、出品し続けた。

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人と共に成長する服

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