深川六助(写真・星野家提供)

白川で行われた深川六助の葬儀の様子。右端には棺が見える(写真・星野鐘雄さん提供)

大正末期から昭和初期と思われる赤絵町付近の陶器市風景。手前には品評会の旗、奥には有田焼大売り出しの旗が見える(写真・鶴田周之助さん提供)

有田焼創業400年を迎え、初日から大勢の人でにぎわう有田陶器市=西松浦郡有田町

■陶器市の開催を提唱

 産業、政治、教育 功績多く

 大正期、有田の町おこしの先駆者として活躍した深川六助。今では日本を代表する風物詩となった有田陶器市の始まりも、六助の多彩なアイデアと行動力によるものだ。産業、政治、教育など数々の功績は今もこの地に深く根付いている。

 六助は1872(明治5)年、白川で窯焼きを営む家の次男として誕生。15歳の時、白川小学校(現・有田小)の初代校長で教育者として名高い江越礼太の推薦で上京、森有礼文部大臣の書生として勉学に励んだ。2年後、森有礼が暗殺されると横浜に移り、叔父の経営する貿易商で働く。1900(同33)年には会津藩士の娘キヨと結婚。キヨは会津若松の教会で洗礼を受けており、結婚後に六助も入信した。

 長男が早くして亡くなり、六助も病を癒すため、1908(同41)年に有田へ戻り、泉山に居を構える。自宅を開放してキリスト教の日曜学校を開いた。1919(大正8)年には私立の有田幼稚園を設立する。

 一方、産業面では1913(大正2)年、泉山磁石場の石場組合事務長に就任。無計画だった採掘の改革に当たるなど手腕を発揮する。

 日清戦争後、「陶磁器品評会」は有田の不況対策として創設される。1915(同4)年の第19回品評会で六助は協賛事業として「大売り出し蔵ざらえ」を提唱する。

 黒髪山への遍路を相手に窯元や商家の女性が売れ残り品を並べたのをヒントに、六助は業界全体の行事として事業を考える。成功を危ぶむ声がありながらも、六助は「(蔵ざらえが)例年行事となって方法もよければ、意外な発展を遂げるかもしれない」と主張。福引き券の発行や文化・スポーツイベントなどを開催、誘客を図った。これが現在への陶器市とつながっていく。

 1929(昭和4)年の陶器市期間中、有田駅の乗降客は3万3~4000人だったが、戦後の54(同29)年は20万人が訪れた。高度経済成長と人々の努力で、客足は右肩上がりに伸びた。マイカー時代も手伝い、今や100万人を超すイベントに成長。ここまでなるとは六助自身も予想できたであろうか。

 また、六助は有田焼創業300年として、有志らと陶山神社に陶祖李参平(りさんぺい)の記念碑建立を計画し、ここでも奔走。「李氏頌徳会」を設立し、名誉総裁には大隈重信が就任した。多額の寄付を集め、1917(大正6)年に記念碑は完成した。

 桑古場に建つ有田教会。毎年11月に記念礼拝を行い、六助、キヨをはじめ亡くなった信者を偲んでいる。同教会役員の富永功さん(66)は「有田の伝道は深川夫妻から始まり、今も脈々と続いている」と話す。

 六助の孫で兵庫佐賀県人会会長の星野鐘雄さん(77)=神戸市=は、ほぼ毎年、記念礼拝に参加。白川にある祖父母の墓へ参る。陶山神社に建つ六助像のモデルにもなった。星野さんは祖父の「人の役に立つことを皆と協力してやりなさい」の言葉を胸に、現在もNPOで街づくりに携わる。

 六助は町、郡、県議も歴任するなど政治の世界で活躍するも1923(大正12)年3月、51歳で死去する。有田に帰郷して十数年、幾多の功績が示すように粉骨砕身で有田の隆盛へ尽力した。

■年表 主な出来事

1872年・白川の窯焼き深川常蔵、セイの次男として誕生

1887年・上京。森有礼の書生として勉学に励む

1889年・森有礼が暗殺。横浜の叔父が経営する貿易商で働く

1900年・会津藩士の娘キヨと結婚。結婚後にキリスト教に入信

1908年・有田へ帰郷。泉山の自宅で日曜学校を開く

1915年・陶磁器品評会の協賛事業として「大売り出し蔵ざらえ」を提唱

1917年・陶山神社に陶祖李参平(りさんぺい)の記念碑が建立

1923年・51歳で死去する

※毎月1回、第4金曜日に掲載します。ウェブサイトに特集ページ

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