武藤辰平さんが好んで描いたオランダの花瓶。色合いが、アジサイの花などと合うと気に入っていた

「紫陽花(あじさい)」を描く武藤辰平さん=1954年撮影(家族提供)

武藤辰平さんの作品「紫陽花」のそばで、思い出を語る良平さん=佐賀市の自宅

■父が描いた花瓶 穏やかな晩年のそばに

 この花瓶は、父が絵を描くとき、よくモチーフにしていました。父は洋画家の武藤辰平で、1931年ごろから4年間、フランスに留学しましてね。花瓶は欧州を旅したとき、オランダで買い求めたそうです。

 現代の焼き物と比べるともろく、ブランド品でもない、どこにでもあるようなごく普通の焼き物です。それでも、デルフト焼で知られるブルーの色合いが、アジサイや菊の花と合うと気に入っていました。

 酒を好み、近所の友人を集めてよく宴会を開いていた父ですが、1960年ごろから脳卒中で3、4回倒れ、病気がちになりました。それまでは風景画を中心に描いていましたが、療養で外出が難しくなった影響もあり、次第に花の絵を描くようになりました。

 そのおかげでしょうか。以前は気性が激しく職人気質で、家族には焼き物を一切触らせなかった父が変わっていきました。晩年になると、焼き物をアトリエから母屋に移し、居間で絵を描くようになりました。それまで家族になじみがなかった花瓶類が、座敷の床の間を飾るようになり、みんなが触れられるようになりました。このころ、父の性格はすっかり穏やかになっていたような気がします。

 亡くなる1週間前、入院先の父から「青の花瓶を持ってきてほしい」と頼まれ、この花瓶を届けに行きました。当時16歳の高校生だった私は、慎重に扱わなければならない花瓶を自転車に乗りながら、片手で持って運びました。父に見つかったら、こっぴどく叱られていたでしょうね。

 アジサイが見頃を迎える6月を前に、父は71歳で亡くなりました。1965年のことでした。

 病気が治るものだと思っていた父は、病室の窓から近くの高校のグラウンドを眺めながら、「元気になったら花の絵でも描きたい」とよく話していました。いま思うと、父は花瓶を手元に置き、花の絵の構想を練っていたのではないでしょうか。アジサイを花瓶と一緒に描きたかったんじゃないかな。

 花瓶はいま、父が描いたアジサイの絵画のそばに飾っています。この花瓶を見ると、父の面影がちらつきますね。気性が激しかった男が、「仏の辰平」と呼ばれるほど温和になっていった過程をしのぶ遺品で、父の晩年を象徴しているような気もしています。

=余録= 母親の形見も

 武藤良平さんの母親の愛子さんは音楽教師だった。辰平さんの影響か、芸術的な感性をくすぐられていたのか、焼き物が好きで、有田陶器市にも通った。

 良平さんを含むきょうだい6人は、父親の辰平さんが他界してからも正月には実家に集まった。そこで、愛子さんが気に入った窯元で買い求めた皿や碗(わん)で食卓を囲んだ。きょうだいそれぞれが結婚するとき、愛子さんはこうした器を持たせた。

 愛子さんは1986年に78歳で亡くなった。「器は母の形見として大事にしている」と良平さん。父親が残した花器と同様、家族の器は脈々と受け継がれている。

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