鳥栖市のJR鹿児島線・昌町踏切。前方に見えるのが国道3号・姫方交差点で、直進の国道500号が現代の彦山道になっている

 鳥栖市田代昌町に残る彦山道の道標「追分石」。ここから東へ行くと、福岡県小郡市、甘木市秋月を経て小石原川に沿う谷道をたどり、小石原峠を越えて彦山に至る。

 戦国時代、佐賀は龍造寺隆信、鳥栖に筑紫広門、秋月に秋月種実(たねざね)がいてきっ抗していたが、1570年代の天正年間、この三者は豊後(大分県)の大友宗麟の支配下に入る。

 しかし、1578(天正6)年、豊前・筑前・筑後(福岡県)、豊後、肥後(熊本県)の大軍勢4万5000を率いて日向(宮崎県)に侵攻した大友宗麟は、日向中部の小丸川で薩摩・大隅(鹿児島県)の軍勢1万6000を率いた島津義久と遭遇し、大敗して日向北部の耳川(みみかわ)まで二十数キロを島津軍に追撃されながら退却する。

 これがいわゆる「耳川の合戦」であり、この戦いを境に九州の覇者大友氏の衰退が始まる。

 この年の12月、龍造寺隆信は大友支配下の筑後に侵入、筑紫広門は筑前に、秋月種実は豊前に軍勢を進め、大友氏から独立するとともに大友領を侵食して戦国大名の地位を確立する。

 福岡の立花にいた大友家の武将立花道雪(どうせつ)、太宰府にいた高橋紹運(あきゆき)と戦う筑紫広門は秋月種実と連携して兵を動かすが、その連絡路として彦山道が使われる。

(鳥栖歴史研究会常任講師)

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