青木類次元町長

姉妹都市調印式で、当時のマイセン製陶所総裁と握手する青木類次元町長(右)=1979(昭和54)年2月

記念碑の前で思い出を語る有田町元助役の前田丈夫さん=有田町のマイセンの森

柿右衛門300年祭で植樹する青木類次元町長(左)と十二代柿右衛門=1953(昭和28)年

■尽きぬアイデアと行動力

 有田町には、かつて財政再建団体に指定された過去がある。町政の赤字体質の改善に奔走しながら、有田焼350年祭を開催し、あらためて「窯業の町」としての存在感をアピールしたのが当時の有田町長・青木類次。佐賀県立九州陶磁文化館や窯業大学校の誘致、街並み保存の推進、道路・土地開発に振るった手腕から、「産業町長」と呼ばれることもあった。

 青木は1909(明治42)年、陶磁器原料や絵具を扱う青木商店の二代目幸平の次男として生まれる。1935(昭和10)年に早稲田大学商学部を卒業すると、青木商店から社名を変えた青木碍子に入社し、経営のノウハウを学ぶ。ちょうどその頃、父幸平が有田町長を1期務め、実直さが評価された町政運営を目の当たりにしている。

 1959(昭和34)年から有田町議を1期務め、1963(昭和38)年に町長に初当選を果たす。財政再建団体への指定は当選から2年後。前の町政で実施した有田小学校新築や上水道、し尿処理場の整備などの大型投資が大きな負担となっていた。

 「町政に経営感覚を持ち込んだ人でした」というのは、青木の下で財政再建に力を注いだ前田丈夫さん(83)。当時約1億円の町収入に赤字は約8000万円に上り、職員1割のリストラ、物件費、補助費の削減など効率化を図っていった。1967(昭和42)年には大水害にも見舞われたが、当初の計画通り、5年間で指定解除にこぎ着けた。

 この苦境の中でも常に考えていたのは窯業の発展だった。財政再建団体指定中の1966(昭和41)年には有田焼創業350年祭を実行。厳しい財政の中、国や県に働きかけ、九州陶磁文化館、窯業大学校の誘致、窯業試験場の移転など、現在の有田を支える施設を整備していった。有田窯業の歴史をまとめた有田町史の編さんを始めたのも青木だ。

 また、経済発展に欠かせない道路や土地区画整備は青木の真骨頂。有田バイパスの整備を実現し、居住環境向上のため団地造成や区画整備に力を入れ、「青木建設」と言われるほどの経営手腕を発揮した。

 有田焼のPRに国際交流も取り入れた。香蘭社の故深川正元社長のアイデアを元に、ヨーロッパの陶磁器産地・マイセン市(当時東ドイツ)との姉妹都市締結を実現。当時の同国国家評議会議長のエーリヒ・ホーネッカーらと友好を深め、国家体制の壁を越えて窯業の未来を模索した。

 国際交流はこれにとどまらず、中国・景徳鎮や韓国の産地とも交流を探った。青木は、「有田焼はマイセン焼と変わらない価値がある」と語り、有田焼への愛情とプライドがその行動力を支えていた。

 7期28年の在任中、青木のアイデアは尽きることがなかった。有田内山地区の環境整備事業では歴史的な建造物を保存し、観光客が歩いて楽しむ有田を狙った。西有田町、山内町との合併で「大有田市構想」もあった。この時は県境を越えて、長崎県波佐見町など窯業でつながった広域連携も考えていたという。

 前田さんは「職員にはプロフェッショナルになれ」と言っていた青木の顔を思い出す。まっすぐな情熱で有田焼のこれからを見据えた「産業町長」は、今も窯業の町を見守っている。

【年表 主な出来事】

1909年 ・青木商店社長で有田町長も務めた幸平の次男として生まれる

1935年 ・早稲田大商学部を卒業

1953年 ・曲川村公民館長時代に柿右衛門300年祭を開催

1959年 ・有田町議に当選

1963年 ・有田町長に初当選

1965年 ・有田町が財政再建団体に

1979年 ・マイセン市と姉妹都市協定調印

1994年 ・85歳で死去

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