父の形見の花瓶にまつわる思い出を語る松尾留美子さん

松尾留美子さんの父親の善吉さんが旧満州から持ち帰った花瓶。95歳で亡くなるまで、ずっとそばに飾っていた

88歳で「松尾医院」を閉じた時の善吉さん=1999年、杵島郡福富町(現白石町)

■満州の花瓶 父の戦時下の記憶宿る

 白石町福富で診療所を開いていた父は、戦時中は軍医として満州(現・中国東北部)やニューギニアに行っていました。このかわいらしい花瓶は、底に中国の清の時代に作られたことを示す「大清康煕(だいしんこうき)年製」の文字があり、父が満州から持ち帰ったものです。

 父は農家の長男でしたが、勉学に励んで中学に進学しました。旧制佐賀高、九州帝大医学部を経て昭和9(1934)年、陸軍の軍医になりました。満州には、結婚したばかりの奥さんを連れ、当時のソ連との国境近くの町で暮らしたそうです。

 戦争が終わると、父は聴診器と血圧計だけを持って実家の玄関先で開業しました。7人の子宝にも恵まれましたが、昭和30(1955)年、奥さんを病気で亡くしました。その後しばらくして、私の母と再婚しました。

 母も再婚でした。前の夫とは、終戦を迎えた満州から引き揚げる際、生き別れたと聞いています。私は父が50歳、母が39歳の時に生まれた「一人っ子」。両親の愛情をたっぷり受けて育ち、父とは小学校を卒業するまで、お風呂も寝るのも一緒でした。

 この花瓶にまつわる最も古い思い出は、私が大学生の頃だったかな。正月か何かの集まりで、父が満州から持ち帰った花瓶をなくしたことを話題にすると、「ああ、それなら-」と親戚が勝手に持ち帰っていたことが分かったんです。すると、普段は鷹揚(おうよう)で物事にあまり執着しない父が、慌てて取り戻しに行ったのを覚えています。

 父の祖父が地元の名士だったこともあり、家の中には客用の食器がたくさんありました。古伊万里の立派な大皿もありましたが、父はそうした器には目もくれず、この花瓶だけを大切にしていました。なぜなのか、語ることはなかったけれど、特別な思い入れがあったのでしょうね。先妻と過ごした頃の記憶が宿っていたのかもしれません。

 花瓶は、父が9年前に95歳で亡くなるまで、リビングの棚にずっと飾られていました。父が好きなテレビの横で、いつも見える場所です。

 父の死から1年後、母も他界しました。花瓶は、実家を整理する際に私が引き取りました。私も気に入っているんです。色合いがいい感じで、可憐(かれん)で品があって。来客用に玄関とかに置きたいんだけど、今は和室の仏壇の横に飾っています。父の遺影のすぐそばに。

=余録= 米寿まで現役

 松尾留美子さんの父親の善吉さんは、外科も内科も何でもこなす開業医で、88歳まで現役だった。

 どんなに夜遅く往診に呼ばれても、断ることはなかったという。小さな診療所に看護師を住み込ませていたのは、晩酌を欠かさなかったため、運転手が必要という理由もあったとか。

 「歯が痛いと言われれば何か詰めて、手を切ったと駆け込んできたら縫合して、いろんな相談にも乗って。みんなに優しい白衣の父が大好きでした」

 背中を見て育った留美子さんは歯科医になった。3年前からは、診療所「松尾医院」があった場所で老人ホームを運営し、実家に山のようにあった食器を利用している。昔の香蘭社、深川製磁などの有田焼が味わい深く、利用者に好評だという。

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