『明山公遺蹟』の初稿に残る細かい校正の跡

 曽禰達蔵。辰野金吾とならび、明治を代表する建築家の一人で、三菱が東京丸の内に建設していた赤レンガ街の基礎を師のジョサイア・コンドルと共に築き上げました。そうした建築家としての曾禰は有名ですが、戊辰戦争の際に旧徳川軍として戦っていたことはあまり知られていません。

 もともと曽禰は江戸で小笠原長行の小姓的な存在でしたが、慶応4年(1868)3月3日、長行が深川の唐津藩下屋敷を抜け出した時には同行せず、後に上野に籠(こも)る彰義隊に曽禰以下18人の唐津藩士と合流しました。5月15日、彰義隊が敗退すると、徳川家蒸気船「長鯨丸」に乗って江戸を脱出し、30日には長行がいた会津(福島県)に到着しました。

 その後、会津藩と共に明治新政府軍と戦っていましたが、庄内藩の援護に向かう桑名藩兵の雷神隊に同行。9月20日、寒河江(山形県寒河江市)の戦いで西郷隆盛率いる新政府軍に敗れ、庄内藩の降伏とともに唐津藩士7人も降伏しました。

 曽禰らは明治2年(1869)7月、東京に護送後、唐津藩主の小笠原長国に引き渡され、唐津で蟄居(ちっきょ)させられました。時に曽禰達蔵、17歳。翌3年には赦免され、4年に開校した唐津藩英語学校「耐恒寮(たいこうりょう)」にも生徒として加わりました。

 長行の没後、その事績を世に残す作業が東京の久敬社で開始され、明治45年、『明山公遺績』としてその一部の初稿が完成した際、校正を担当したのが曽禰でした。その初稿には、かつて長行から「真面目が人間になったようだ」と評された性格を表すかのように、戊辰戦争を共に戦った唐津藩士たちの気概や歴史を正確に後世に伝えたいと考えた曽禰の細かい校正の痕跡がぎっしりと残っています。


くろだ ゆういち 福岡県柳川市生まれ。琉球大学法文学部史学科卒、国学院大学大学院文学部史学科博士課程前期修了。1999年、旧相知町役場(教育委員会)入庁。現在、唐津市教育委員会兼唐津市明治維新150年事業推進室推進係長。

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