外務省の庭でも植樹した桜が咲き誇っていた。イピル・イピルの会現地スタッフのヴァイカさんも笑顔を浮かべた=サラエボ

樹皮が枯れた桜を手入れする鈴木榮さん。植えっぱなしにせず、毎年訪れる=北部のツズラ

1984年の冬季五輪会場に隣接する旧サッカー補助グラウンド。内戦で犠牲になった人々の墓石が林立する=サラエボ

 2020年の東京五輪に向け、唐津とボスニア・ヘルツェゴビナを着物で結ぶ「KIMONOプロジェクト」。内戦終結から23年目の現地を訪ね、国際交流、支援の意義を考えた。

 4月中旬、先々で満開の桜が出迎えた。例年なら散り始めている頃だが、「盛りのこの時を僕らに見せたかったのかも」と千葉県市原市の鈴木榮さん(76)。いとおしそうに花を見上げ、枝切りばさみや防腐剤が入った腰の“七つ道具袋”に手を伸ばした。

 造園会社の社長。8年前、JICA(独立行政法人国際協力機構)職員だった大学の先輩から「桜の植樹活動に取り組む団体が樹木の専門家を探している」と手伝いを頼まれた。「特に勉強する必要はないし、技術を生かすだけなら」と引き受けた。以来、毎年、訪問団に参加する。

 その国際支援団体「イピル・イピルの会」の代表、唐津市厳木町出身の伊藤登志子さん(73)=旧姓鶴田=が初めてボスニア・ヘルツェゴビナを訪れたのは1998年。砲弾でえぐられたビルの無残な姿、埋設された地雷の警告マーク。92年から3年半にわたる内戦の傷跡が生々しく残っていた。

 内戦は市街地や三つの民族が隣り合って暮らしてきた生活の場が戦場となった。「民族浄化」という言葉が使われたのはボスニア内戦が初めてという。首都サラエボのゼトラ公園墓地は悲劇を凝縮した場所だ。

 旧ユーゴスラビア時代の84年に開催されたサラエボ冬季五輪アイスアリーナに隣接するサッカー補助グラウンド。見渡す限り墓標が並ぶ。それもイスラム、カトリック、セルビア正教とさまざまだ。内戦中、犠牲になった人々を埋葬する場所が足りず、平和の祭典である五輪の施設が墓地となった。

 市民を巻き込んだ内戦の現実に言葉を失いつつ、「民族の壁を越えて桜の下に集い、春の喜びを分かち合う。そんな日が来てほしい」。伊藤さんたちは2002年、植樹を始めた。これまでに1800本に達し、全土に広がった。

 大通りのバス停横に、市街を流れる川の遊歩道に。「華やかな花がいい」という要望で選んだ八重桜は、内戦が遠い過去の出来事のような、平和な雰囲気が漂う街に溶け込んでいる。

 一方で歳月は風化をもたらす。隣国セルビアの首都ベオグラードにオフィスを構えるJICAバルカン事務所の小林秀弥所長(52)は「表面的には紛争がなくなり、日本を含めメディアもNGOも関心が薄くなったのは否めない」と話す。

 今年の訪問は日本に残った伊藤さんに代わり、JICA職員として40年間、海外生活を送った夫の嘉一さん(73)が引率した。道中、「満開のこの桜を(妻に)見せたいな」と語りながら、もう一つ、あるものを探し続けていた。

 嘉一さんがODA(政府開発援助)による復興支援のため手配した黄色いバスだ。横には「JAPAN」の文字が記されている。

 その数50台。サラエボの街を走る姿がいつも目についた。それが段々少なくなり、とうとう見かけなくなった。「引退したかな」と寂しげに語っていたが、南部の観光地モスタルを訪れた時、出合うことができた。

 「市民生活に直結した支援で、日本への好印象につながっている」と小林所長も話していたバスだ。日の丸の色はかすれていたものの現役として走っていた。

 ピンクの桜と黄色のバス。冷戦終結後最大の紛争地に、日本からの息長い支援が根付いていた。

 

ボスニア内戦

1989年のベルリンの壁崩壊後、旧ユーゴスラビア内では自由化の一方、社会主義によって封印されていた民族主義が台頭し、独立をめぐってムスリム人(イスラム教)、セルビア人(セルビア正教)、クロアチア人(カトリック教)の3民族が対立。92年から95年まで死者20万人、難民・避難民が200万人に上る戦後欧州で最悪の紛争となった。

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