巡視艇「まつかぜ」の横に立つ前部長の西分竜二さん=唐津市二タ子、唐津海上保安部横

 古代から「末廬(まつら)」「松浦」と呼ばれ、大陸と地理的に最も近い唐津では平安時代中期頃には松浦党がいわゆる「倭寇」として海を舞台に活躍していたといわれます。

 豊臣秀吉の夢の跡、肥前名護屋城を舞台とする文禄・慶長の役でそれぞれ約15万人を船で朝鮮半島に送り込んだ際、ロジスティックス(物資調達補給)の責任者として活躍した寺沢志摩守が唐津藩の初代藩主となり、今の唐津の姿を造りました。

 寺沢氏の改易後、譜代大名として唐津藩主となった大久保忠職は、播磨国明石藩主から転封となった際に、一緒に「舟手(ふなて)」と呼ばれる人々を連れて来ました。舟手とは藩直営の水軍で、藩所有の船を管理・運用しながら、輸送や沿岸警備に従事した組織の総称です。

 この舟手の一人で明治維新まで代々大船頭を務めた「松下家」の古記録によると、当時の業務は参勤交代時の下関渡航、幕府使節の送迎のほか、遭難船の救助、異国船の長崎来航に伴う派遣などでした。

 彼らが海で培った操船技術は、後の石炭輸送や捕鯨にも活用されたと思われます。松下家の14代目の子孫は現在も唐津に在住されており、8代目の松下当平冶は1812年、伊能忠敬らが唐津に来た際には船の船頭として測量補助を務めています。

 その地政学的要因から、海を舞台にさまざまな歴史を持つ唐津には戦後混乱の中、1948(昭和23)年5月、海上保安庁の発足と同時に唐津海上保安部が設置されました。以後70年間、唐津の海を守っています。

 普段は人目につかない日々の業務を次回から職員たちが紹介していきます。(唐津海上保安部前部長・西分竜二、4月1日付で那覇海上保安部に転任)

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