今年迎えた明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は上峰中(三養基郡上峰町)の2年A、B、C組です。

2年A組
2年B組
2年C組


戊辰戦争や首都移転に役割

【きょうの教材】列藩同盟の抵抗

慶応4(1868)年~明治元(同)年


「さが維新前夜」2017年11月25日付より

会津軍が籠城した鶴ヶ城。天守は1965年に再建された=福島県会津若松市

 「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れて2カ月後の慶応4年3月、仙台、米沢の両藩は新政府軍から会津征討を命じられた。しかし、会津に対する厳しい姿勢が「恨み」から来ているのではないかという疑念を、東北諸藩は抱いていた。幕末、長州は「八月十八日の政変」で京都を追われ、「禁門の変」でも敗北するなど、会津と激しく対立していた。仙台、米沢藩は会津救済と戦争回避を目指したが、戦争への流れは止められなかった。
 新政府軍は、列藩同盟軍の抵抗を退けながら8月下旬に会津領に入ると、一気に鶴ヶ城下に攻め込んだ。城下は大混乱に陥り、武家の女性や子どもが、戦いの足手まといにならぬよう自ら命を絶ったり、白虎隊の少年たちが自刃するという悲劇も起きた。

小田山から見下ろす鶴ヶ城。佐賀藩のアームストロング砲はここから城を攻撃した

 会津での戦争には、佐賀藩も新政府軍として参戦した。鶴ヶ城から1.7㌔ほど離れた山から、佐賀藩のアームストロング砲の砲弾が降り注ぎ、城は大きな打撃を受けた。会津は9月に降伏。列藩同盟の多くの藩もこの頃までに降伏した。
 この時期、明治天皇が即位し9月8日に「慶応」から「明治」に改元された。また、後の東京への首都移転の布石となる、天皇の東京行幸も行われた。新政府は東京行幸を「御所の奥で暮らす天皇が民衆の前に姿を現す」と演出することで、新時代の到来を強く印象づけようとした。首都移転については、江藤新平、大木喬任が慶応4年に「首都を京都と東京に」との意見書を出すなど、佐賀が大きく関わっている。


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京都から東京へ首都を移すことに佐賀が大きな役割を果たしたということなど、記事を書いた江島記者が話した=上峰町の上峰中

相馬崇志先生 きょうは新政府軍と旧幕府軍の戦い「戊辰戦争」の復習や、京都から東京へ首都を移すことに佐賀が大きな役割を果たしたことを学習するため、記事を書いた江島貴之記者に話してもらいます。
江島貴之記者 徳川慶喜が政権を朝廷に返上しましたが、薩摩・長州中心の倒幕勢力はそれを許さず戦争に持ち込みました。それが戊辰戦争です。倒幕勢力は会津藩を敵視していました。幕末に会津が京都の治安維持に当たり、長州と対立したため「会津憎し」の感情が強かったのです。
 東北諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成して対抗しましたが、会津は鶴ヶ城に籠城し、最後には降伏します。鶴ヶ城攻撃では佐賀藩のアームストロング砲が威力を発揮しました。佐賀藩は同じ時期、窮地に陥った秋田藩の援軍として、秋田へも出兵しています。
 この戦争の時期に元号が「慶応」から「明治」に変わり、翌年の首都移転につながる天皇の東京行幸がありました。特に行幸は、天皇の行列が道を行くわけですから、「民衆の前に姿を現した」という演出は新しい時代の到来を印象づけました。首都移転には佐賀の江藤新平、大木喬任が「首都を京都と東京に」との意見書を出して深く関わりました。新しい国づくりに向けて古い考えを改めるために、天皇を京都から外に出す必要があると考えたのでしょう。
 奥羽越列藩同盟は、もとは会津への寛大な処置を願うのが目的でした。会津も最初は新政府に「謝罪」したのに、それでも戦争になったため、今でも、東北の人には「戊辰戦争はやる必要があったのか」との思いが強いようです。取材に行って知りましたが、戊辰戦争で敗れたところでは「維新150年」とは言わず「戊辰150年」と言っています。「勝った側」「負けた側」の目線の違いは大切にしたいと思いました。
生徒1 記事に出てくるアームストロング砲を佐賀藩は製造できたの?
江島記者 外国から買ったのではないかと、自分では考えています。しかし佐賀藩製造説を主張する人はいますし、今でも議論されています。
生徒2 なぜ江藤新平、大木喬任は首都を京都と東京に分けようと考えたの?
江島記者 天皇を京都から外に出すことが第一の狙いだが、いきなり首都を移すとなると反対が大きい。そこで「京都を残しながら、東京にも」と最初は考えたのだと思います。
生徒3 明治になって、活躍していた佐賀が振るわなくなっていったのはなぜ?
江島記者 薩摩、長州が新政府の中心になってしまったということです。それでも、「佐賀はこれだけの活躍をした」ということは知るべきだし、同じ時代にどういうことが起こったのかも、合わせて学んでください。
相馬先生 今日の話で「佐賀からの目線だけでなく、立場を変えた目線も大切に」との提起がありました。このことは、今後の授業でもぜひ生かしていきたいと思います。


【授業を聞いて・みんなの感想】

2年A組 白浜拓実さん

 授業を受けて一番驚いたのは、150年前に佐賀藩が、1.7キロも砲弾を飛ばせるアームストロング砲を使っていたということです。また、その大砲が、「実は佐賀製かどうか分からない。海外から取り寄せたかもしれない」と聞いてさらに驚きました。僕としては、佐賀で製造されていても、海外から取り寄せていても、佐賀藩がいち早く近代化を目指した姿であるので、とても素晴らしいものだと感じました。

2年C組 小野原来望さん

 佐賀が、歴史を変える大きな活躍に関わっていることを知り、興味が湧いてきました。しかし、「活躍」の裏には負けた側の存在もあると聞き、そのことを考えると単純に「すごい」と思うだけではいけないとも感じました。私が一番印象に残っているのは、佐賀藩が秋田藩を助けに行ったことが、150年たった今でも感謝されているという話です。私も佐賀藩を見習って、困っている人に手を差し伸べ、協力できる人間になりたいと強く感じました。

【維新博 INFORMATION】

佐賀ゆかりの偉人モニュメント

 3月17日(土)から約10カ月間にわたって開催される「肥前さが幕末維新博覧会」。JR佐賀駅からメーンパビリオンの幕末維新記念館へ向かう佐賀市中央大通り沿い9ヵ所に、佐賀ゆかりの偉人モニュメント25体を設置します。
 佐賀藩を雄藩へと躍進させた名君・佐賀藩10代藩主鍋島直正、日本近代建築の礎を築いた辰野金吾、明治時代を代表する書家・中林梧竹、近代医学の礎を築いた伊東玄朴など、さまざまな分野で活躍した偉人たちの等身大モニュメントが、博覧会の開幕より一足早く3月3日(土)に登場します。
 また、開幕に合わせて、偉人モニュメントと幕末維新記念館を巡りながら、25のミッションをクリアしていく無料アプリ「さが偉人ラリー」をリリース。このアプリを使うと、偉人モニュメントと一緒に特別なフォトフレームで写真が撮れたり、偉人のクイズに答えたりしながら、モニュメント巡りをさらに楽しむことができます。25のミッションをクリアして応募すると、豪華賞品が当たるかも!偉人モニュメントを巡りながら、佐賀の街歩きを楽しんでみませんか。どうぞご期待ください。

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