藤山雷太(大里公民館蔵)

神之原八幡宮の境内に立つ藤山雷太の銅像=伊万里市二里町大里

神之原八幡宮には藤山雷太が寄進した巨大な石灯籠や鳥居が残る=伊万里市二里町大里

大里公民館として活用されている藤山雷太の生家で、藤山の足跡を振り返った力武勇さん(右)ら。室内には藤山の肖像画(右上)などが飾られている=伊万里市二里町

■製糖業を核に民間外交

 

 勉学に励んでいたのか、その家では行灯(あんどん)の明かりが遅くまで外にこぼれていたという。

 伊万里市出身の実業家で、製糖業などを手がけた藤山雷太。二里町大里地区には藤山の生家が残り、公民館として今も使われている。元区長の力武勇さん(92)は記憶をたどる。「うちの祖父が雷太翁より二つ年上でね。『彼は天才じゃなくて努力家だった。だからお前も頑張れ』と、よく言われたものです」

 古老の話を裏付けるように、藤山の歩みを聞き書きでまとめた『熱海閑談録』(1938年発行)にはこう記されている。「自主の精神、独立の気迫は幼少の時から深く刻み込まれた」

 

県会議員から転身

 文久3(1863)年、庄屋を代々務めていた家の四男として生まれた藤山が、実業家への道を歩み始めたのは30歳のころ。「生計の独立を期して後、人に影響を及ぼし、物質的な文明を発展させて国を豊かにする」。聞き書きによると、そんな気概をもって長崎県会議員から転身している。慶応義塾で学んだ時代に師事した福沢諭吉の影響が大きく、福沢の紹介で明治25(1892)年、三井銀行に入った。

 幕藩体制が崩壊し、近代化が進む過程で財閥は形づくられていった。三井や住友は江戸時代の富商が源流で、三菱などは明治に入ってから築き上げられた。

 初期の財閥は、政府との結びつきを強め、国内で基盤を固める時期が続いた。

 藤山が入行したころの三井銀行は、政府高官との関わりが無理な貸し出しを招き、多額の焦げ付きがあった。抵当係長だった藤山はあるとき、抵当流れで三井が経営することになった芝浦製作所の所長を任され、電気機械工場として発展させていく。東京商業会議所にも出入りするようになり人脈を広げていった。

 転機は明治42(1909)年。大日本製糖(日糖)の相談役だった渋沢栄一に請われて社長に就任した。日糖は、他社の買収や工場建設による借入金が膨らみ、砂糖関連の増税を見据えて多大な原料糖輸入や精製をしたことも裏目に出て、経営難に陥っていた。

 損失額や資産状態を詳細に調べた藤山は、製糖工場の中に十分に稼働していない部分があることに着目する。工場は東京や大阪、大里(北九州)にあり、日清戦争(1894~95年)後に日本領となっていた台湾にも建設中だった。藤山は生産体制を見直し、原料糖を自社で賄うための工場を台湾に増設して、中国への輸出にも目を向ける。英国資本を後ろ盾とする香港の会社に対抗するために情報を集めて販路を広げ、社長就任から2年後には、株主に利益を配当できるまでに業績を伸ばしている。

 

排斥の動き和らげ

 日糖の再建に道筋をつけた藤山は、中国や東南アジア、欧米を歴訪し、各国の要人と親交を深めている。藤山の動きは、事業の拡大に向けた一つの戦略だったのだろう。ただ、日本人の経済的な海外進出に対する排斥の動きを和らげようと努めた民間外交の跡もうかがえる。日本とアジアの関係を研究する佐賀大学教授の山崎功さん(52)は「協調していけるような付き合い方を模索していたのではないか」と推測する。

 伝記『藤山雷太伝』には隣国の中国との親善の重要性を認識していたことが記されている。経済や国交上の摩擦を憂慮し、大正4(1915)年には実際に中国を訪問している。

 聞き書きによると、大正12(1923)年にはハワイも訪れている。数多く入植していた日本人を見て「あたかも日本領土の延長のように振る舞っている。それが米国人の感情を刺激して問題を起こすのではないか」と懸念し、紛争を解決するための委員会をつくりたいと申し出ている。

 折り合いをつけながら信頼関係を築いていった藤山は、銀行や鉄道など製糖以外の事業も手掛け、財閥の礎をつくった。長男の愛一郎がその「藤山コンツェルン」を継ぎ、太平洋戦争後も一定の期間、存続した。

 

 

=人気女優との逸話=

 

 藤山雷太は演劇界の振興も下支えし、渋沢栄一らが発起人になった明治44(1911)年の帝国劇場開場にかかわった。聞き書き『熱海閑談録』には、スター女優の松井須磨子(1886~1919年)との逸話も収録されている。

 ある日、藤山が門司から別府へ向かう汽車の中で、松井と演出家の島村抱月と出会った。「ぜひ一度、帝劇の舞台を踏みたい」という2人の願いを受け、別府滞在中に松井の芝居を見物し、帰京後に渋沢らに出演を取りはからった。

 「須磨子も帝劇に出てから、一層その芸に光彩を添えたとともに、人気も引き立った」と述懐している。島村が病死し、松井が後を追って自殺したときには哀れみ、葬儀に花輪を贈っている。

 

 

=藤山雷太の歩み=

 

1863(文久3)年 二里町大里に生まれる。幼くして漢学に触れ、草場船山の啓蒙舎や長崎師範学校、慶応義塾などで学ぶ

1888(明治21)年 長崎県会議員に当選

1892(明治25)年 三井銀行に入る。その後、芝浦製作所所長や王子製紙専務など歴任

1909(明治42)年 大日本製糖社長に就任

1917(大正6)年 東京商業会議所会頭に

1923(大正12)年 貴族院議員に勅選される

1934(昭和9)年 大日本製糖社長を退任し、長男の愛一郎が継ぐ

1938(昭和13)年 死去

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