〈さまざまのことは忘れむ辞する日の迫りて昼の爪を切る音〉。歌人、篠(しの)弘(ひろし)さん(85)の一首である。出版社で長く働いた経験があり、当然ながら悲喜こもごもの会社員生活だったであろう。爪を切りながら、もう全て忘れてしまおうという、きっぱりとした決意がみてとれる◆自営業を除けば誰もがいつかは迎える定年。きょうが、その日という人も多かろう。それは「第二の人生」のスタートでもある。年度を新たにする春は卒業や入学、退職、就職と、別れと出会いの季節だ。桜吹雪の中、門を後にする人、くぐる人、さまざまだろう◆私事で恐縮だが、きょうをもって「有明抄」担当とともに、会社人生を終える。還暦の定年である。牛のように根気強く、こつこつと言葉を紡ぎたい―。そんな意のもとに書き始めて3年。以前(2008~11年)を含め6年間、この欄にかかわった◆人の哀歓に触れ、愛情を胸に書くことに努めてきたが、もとより才乏しき身。たびたびの厳しいおしかりや親切なご教示、温かい励ましがあったからこそ続けてこられた◆最後に小説家、詩人の伊藤桂一さんの詩「微風」を引きたい。〈掌(て)にうける/早春の/陽(ひ)ざしほどの生甲斐(いきがい)でも/ひとは生きられる(略)微風となって渡ってゆける樹木の岸を/さよなら/さよなら…〉。ありがとうございました。(章)

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