辺野古では新設の反対運動を続ける県民から基地問題の経緯について聞いた=沖縄県名護市の辺野古

 佐賀大学と長崎大学の学生ら11人が3月初旬、ゼミの研修で沖縄県を訪れた。太平洋戦争末期に激戦地だった南部の戦跡や、米軍普天間飛行場の移設先として、埋め立てに向けた工事が進む名護市辺野古を巡った。学生たちは何を感じ取ったのか。研修に同行した。

 那覇市からバスで約40分。戦没者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」は、糸満市摩文仁の平和祈念公園にある。軍民や国籍を問わず追悼する石碑には「○○の子」「○○の長男」という記述もある。「戦争で家族も亡くなり、名前さえ分からない人たちです」。案内役の沖縄タイムス社編集委員、謝花直美さんがそう説明してくれた。刻銘されている佐賀県出身者は1026人。学生たちは一人一人の名前に視線を注いでいた。

沖縄戦を体験した人々の生々しい証言が記されている=沖縄県糸満市の県平和祈念資料館

 公園内の平和祈念資料館に入ると、何人もの子どもや女性が避難先のガマ(自然洞窟)で亡くなっている写真が展示されていた。周りには鍋が転がり、生活の跡がうかがえる。謝花さんは学生たちに語りかけた。「『死んでる』『怖い』って思うかもしれないけれど、この人たちは直前まで生きていた。死んだ怖さだけを見るんじゃなくて、直前まで生きていたということ、生きたかったという思いと向き合って」
 沖縄戦を巡っては、南風原文化センターでも学芸員の平良次子さんが学生に語りかけた。「沖縄での出来事と思うかもしれないけれど、つながっていない人は一人もいない」。日本国民すべてがかかわった戦争。あの時代を生きた人たちの子孫として考えてほしい-。そう問い掛けられた。
 宜野湾市にある普天間飛行場に加え、北部の名護市辺野古にも足を伸ばし、沿岸部を埋め立てるための護岸工事を目の当たりにした。抗議活動を続ける人たちがカヌーで近づこうとすると、ゴムボートに分乗した海上保安官に引き離される。4年前から参加している30代女性は「基地は事故が絶えない。地元に来てほしくない。何とかしたいのに、工事を止められないのがつらい」と嘆いた。
 一行は、北部の屋我地(やがじ)島にある国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」も訪問した。ハンセン病患者は、旧らい予防法の下で愛楽園へ強制隔離された。戦時下、入所者は防空壕を掘る作業を命じられた。断層に無数に交じる貝殻で指を切っても治療がままならず、化膿して、切断を余儀なくされた人もいたという。学生たちは貝殻を触り、切なそうな表情だった。
 人工中絶や断種で生まれることができなかった子どもの慰霊碑「声なき子供たちの碑」、施設で亡くなった人の納骨堂の前で話を聞いた。学芸員の辻央さんは「ハンセン病施設には必ずと言っていいほど納骨堂がある。家族と同じ墓に入れず、ここに入らざるを得なかった人が多くいる」と説明した。
 その上で問い掛けた。「ハンセン病だったことを隠し続けて生活する人もいる。見えにくいが、今でも(ハンセン病差別の)影響は残っている。本当の平和とは、どういう意味なのか考えて」

「ハンセン病施設には当たり前のように納骨堂がある」と話す辻央さん=沖縄県名護市の沖縄愛楽園交流会館の納骨堂前


学生の主な感想

 ▼長友美紀さん(22)=佐賀大=
 愛楽園の辻さんが言葉をかみしめて、自身のことのように語っていたのが印象深かった。愛楽園の人たちやハンセン病の歴史に向き合っているからだろう。家族からも認められず、今でもハンセン病を隠す人がいるという。現実を見ないようにと、ふたをしたくない。


 ▼小林弘幸さん(22)=佐賀大=
 抵抗活動への暴力があると辺野古で聞いた。沖縄の人たちの米軍や国に対する怒りを感じた。生活している人のことを考えると、ヘリの騒音や事件・事故は不安材料でしかない。基地があっていいとは思わない。


 ▼柳川優希さん(23)=長崎大=
 教師になりたいと思っている。生徒にも沖縄の事実を知って感じてもらいたい。まだ正確な情報を伝えられる自信はないけれど、そこに行って話を聞いて一緒に「何か」を感じたい。


 ▼藤井香奈さん(22)=佐賀大=
 「死の直前までの生を想像すべき」という謝花さんの言葉から、その人たちが生きた証を私たちが読み取っていかないといけないと感じた。ハンセン病で隔離され、名前まで失って、アイデンティティーを奪われる。歴史を知るのは怖いことかもしれないけど、近づいてよく見て想像しないと。体験者が少なくなる中、五感を使って知ろうとする努力が大切だ。

戦跡巡りで案内役を務めた謝花直美さん=沖縄県島尻郡南風原町の南風原文化センター
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