村田保(「佐賀県大百科事典」から)

東京海洋大学品川キャンパス附属図書館に所蔵されている村田保の書。「水産以富国」と記されている=東京都港区港南

式典を終え、来賓に拍手で見送られる佐賀県高等水産講習所の修了生=3月9日、唐津市唐房の水産講習所

東京海洋大学品川キャンパスにある村田保の記念碑。「水産翁碑」と記されている=東京都港区港南

■水産教育 体系づくりに奔走

 「安全でおいしい水産物を安定して供給するという日本の漁業、佐賀県の漁業の使命は重い」。唐津市唐房にある佐賀県高等水産講習所で3月9日に行われた修了式。ノリ養殖やイカ漁の現場に立つ12人に、所長は期待を込めて言葉を贈った。

 漁業を体系的に学ぶ-。こうした水産教育と水産業発展の基礎づくりに力を注いだのが、唐津藩士の長男として生まれた村田保だった。現在の東京海洋大学(東京都)の前身「水産講習所」の創設をはじめ、漁業法の制定など水産振興に貢献した。

■元々は法律家

 村田は元々、水産業界とは縁遠く、法律の専門家で官僚だった。足を踏み入れたきっかけは明治13(1880)年、留学先のドイツ・ベルリンでの、行政裁判所長グナイストとの出会いだった。

 このときドイツでは万国水産博覧会が開かれていた。グナイストは村田に尋ねた。「日本の水産物はドイツの10倍、600種以上で実に豊富でうらやましい。水産業はどんな状況か」

 38歳の村田は、答えに窮した。「私は大いにこれを恥ぢた」。晩年に刊行した『明治文化発祥記念誌』で、こう振り返っている。一緒にドイツに滞在し、後に水産講習所の初代所長になった松原新之助と「指導団体の設立、水産法規の確立、水産教育の普及」を誓い合ったという。

 幕藩体制下の日本の漁業は、農業と比べて低く位置づけられていた。廃藩置県後は、それまで藩ごとにあったルールもなくなり、秩序が乱れた。明治政府ができても水産行政は立ち後れの感があった。

 1、2人という小規模な漁家から、100人を超える共同作業を必要とするものまで幅広かった日本の漁業。水産の業界団体「大日本水産会」の幹事長を明治24(1891)年から務め、貴族院の議員でもあった村田は、陸の産業だけでなく「海の産業」が重要と主張する。海軍に寄与するという観点からも「これを保護育成しなければ国威にも影響してくる」と関係大臣や両院議員に説き、賛同者を得ていく。

 明治26(1893)年には漁業法案を提出し、提案理由を説明した。また、全国の漁村を行脚し、1カ月足らずの間に16回の講演も重ねた。

■日本の慣習反映

 「人材育成、法律の整備、資源保護、PR事業など手がけた取り組みの数々は、近代化を見据えた複眼的な取り組みだった」。2016年3月まで県生産振興部副部長を務め、長く資源管理に携わってきた柴山雅洋県漁業信用基金協会理事長(62)は「漁業の産業へのステップアップ」を大きな功績と捉えている。

 法整備を巡っては、西欧の影響を強く受けた憲法や民法などと異なり、「日本独自の慣習を反映させることに腐心した」とみる。実際に漁業法では「組合が漁業権を持ち、組合員が行使するという形を取り入れることで、権利意識のぶつかり合いを極力減らした」。法案提出から成立まで5年以上と、歳月を要しているが、「だからこそ現代にも通じる法律になったのでは」と推し量る。

 大日本水産会が創設した水産伝習所が発展する形で、水産講習所が旧農商務省の所管で発足したのは1897(明治30)年。遠洋漁業の奨励で加工機械も進化し、村田が力を入れた缶詰製造も質の高い商品を生み出すようになっていく。

 大正7(1918)年、喜寿の祝いの席で「半世紀近い友人」として祝辞を述べた大隈重信は、ねぎらいの言葉をかけながら「村田さんは一度、志を立てれば最後まで突進するという熱烈な方」と評した。頑固さを強調され、苦笑いをしていたであろう村田。彼が一線を退いても、意思を継いだ「水産大国・日本」への基礎固めは続いた。

 

=一夫一婦の明文化=

 村田保の本職は法律家で、英国などに留学して知識を広げた。明治13(1880)年春、刑法や治罪法の原案ができて元老院会議に提出された際、内閣委員を務めていた村田の投げかけが波乱を巻き起こした。

 日本は慣習的に旧来、正妻ではない妾(めかけ)を「二等親」と位置づけてきたが、原案では外していた。これに反対する議員が続出し、復活させる動議を提出して成立させた。

 しかし、村田は「二等親にするのは悪習で倫理に反する」と意見を申し立て、対立する委員を欠席しなければならないように仕向けて、修正案を可決した。これによって初めて、日本の「一夫一婦」の精神が法律上、明文化された。

 

=村田保の歩み=  

1842(天保13)年 大阪唐津藩蔵屋敷で生まれる

1871(明治 4)年 英国へ留学(明治6年まで)。刑法を学ぶ

1880(明治13)年 ドイツ留学(明治14年まで)。行政裁判所長ルドルフ・フォン・グナイストに対面。水産談を聞く

1890(明治23)年 貴族院議員に

1893(明治26)年 水産伝習所長に就任

1898(明治31)年 小松宮彰仁親王が「水産翁」の称号を贈る

1905(明治38)年 全国缶詰業連合会発足、会長就任。

1914(大正 3)年 海軍贈賄事件(シーメンス事件)で山本権兵衛内閣を糾弾、政界を引退

1925(大正14)年 死去

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