鐙(右)と鞍(左)。いずれも武雄鍋島家に伝えられたもの。

 日本独特の鞍や鐙などを用いた和流馬術が確立し全国に広まったのは、平安時代末期から鎌倉時代初期のこととされます。これは東国武士勃興に伴うものであり、武士最盛期(鎌倉・室町時代)に、和流馬術も最盛期を迎えます。

 その後、軍制が徒歩戦本位になったことなどから、徐々に衰退。しかし徳川吉宗が実武の振興を図ったことから復興し、廃絶していた流鏑馬、笠懸、犬追物などの騎射の型も新たに考案されました。

 和流馬術は、騎射での戦闘を主流として発達しました。鐙や鞍などの馬具も、騎射に際して上体を安定させられるよう、鞍から腰を浮かして立ち上がりやすい形状をしています。

 鐙は、膝で馬の反撞(反動)を吸収するため踏ん張って立ち上がりやすい形となっており、鞍の前輪と呼ばれる部分が高くなっているのは、騎射の際、中腰で前のめりになった騎手が太ももをもたせ掛けて姿勢を維持するためです。

 武雄鍋島家にも、鐙や鞍等の馬具が伝来しています。的中記録や諸役などを記した「KasakoekeNikoki(笠懸日記)」「犬追物手組事」には、武雄領主である鍋島茂義やその家臣の名が見え、武家として騎射の修練に努めていたことがうかがえます。

 武雄市図書館・歴史資料館では4月8日まで「馬、駆ける~武雄地域の流鏑馬神事~」を開催中です。

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