井山憲太郎(玉島ミカンの祖)(年代・日付不明)

ハウスで育つ鈴なりのミカン=唐津市浜玉町平原

井山憲太郎がミカン畑を見て回った際に乗っていたかご。ひ孫の井山裕人さんが保管している=唐津市浜玉町平原

平原地区一帯に広がるミカン畑。井山憲太郎が露地栽培を定着させた=唐津市浜玉町平原

■困窮の中山間地に産地

 日本で最初のミカン専門書といわれている明治37(1904)年出版の『日本の蜜柑(みかん)』。全国のミカン産地を行脚したという著者の安部熊之輔が、現在の唐津市浜玉町平原に当たる玉島村平原を次のように記している。

 〈肥前唐津湾二平原ミカンガアル、種類ハ温州蜜柑デ栽培日尚浅キモ将来有望ノ素ヲナシテイル〉

 「将来有望」の見立て通り、露地ミカンは明治末期までに玉島農業の基幹作物に育った。礎を築いたのは地元の小学校教師、井山憲太郎だった。

 

■医学から転身

 井山は安政6(1859)年、玉島村の医師の長男として生まれた。佐賀や長崎の医学所で学び、19歳で東京帝国大学医学部に進学したが、大病を患って帰郷。回復後は医学の道を諦めて地元に根を下ろし、明治19(1886)年から村の産業振興を担う「勧業談話会員」になり、実情を見て回る。30歳で尋常第九区平原分校(現在の平原小学校)の教師になった。

 佐賀県の露地ミカン栽培は300年以上の歴史があると伝わるが、江戸時代は大規模な栽培は行われていなかった。明治改元後、新政府は殖産興業をうたい、明治10年代半ばからは農工商漁業を奨励する「勧業談話会」が勧告によって各地に組織され、ミカン栽培拡大の機運も高まっていく。

 耕地が狭く道路事情も悪い中山間地域の農家は、コメ以外の副収入を得ることが課題だった。地租改正に伴い、年貢ではなく一定の税金を納める制度に変わり、困窮しつつあった。このとき井山がいち早く目を付けたのがミカンだった。教職の傍ら、明治20年代半ばから苗木を植えることを奨励。山林を開墾して栽培方法を示し、家々を回り「村の利益になる」と訴えた。

 「ミカンの木は寒さに弱いけれど、ここには対馬からの暖流が来る。風は強くても、最低気温はそれほど下がらないことが栽培に向いていたのでは」。元JA佐賀経済連園芸担当参事の向井健作さん(71)は井山が着目した背景を推し量る。花こう岩の土壌も木の生育にとって有利で、傾斜地で排水に優れ、十分な日照も確保できると見込んだと推測する。

 明治32(1899)年には、農家有志と自主的な研究組織「平原柑橘栽培改良会」を立ち上げ、初代会頭に就任した。『玉島蜜柑発達史』によると、早朝から各自の圃(ほ)場(じょう)を見て回り、夜を徹して技術改良や普及の討議を深めた。福岡や長崎から仕入れる苗木が比較的高価だったため、購入のために50銭ずつ持ち寄る「講」を設ける一方、村内での苗木づくりにも努めた。

 改良会が発足した年、村内の道路が荷車が通れる幅に拡張され、博多がミカンの出荷圏内に入る。明治30年代後半には副産物としての収入が麦や粟(あわ)をしのぐほどになった。県の統計によると、明治20年まで300アールほどだった県内の植栽面積は明治末期に7100アールまで拡大。玉島は2割強を占める屈指の産地になった。

 

■共同防除促す

 井山ら改良会のメンバーは明治42(1909)年、東松浦郡の補助を受けて朝鮮半島を視察、直後に釜山への輸出も試みるなど「攻めの農業」も展開した。ただ、自然相手の農業は時に、危機に直面する。村では翌年以降、ミカンの病害虫が大発生した。井山は村長を介して、対応に当たる県庁の技師の派遣を求める。村民には、薬剤などによる共同防除の重要性を根気強く呼び掛けた。

 平原のミカン栽培は戦後も拡大。昭和40年代の2度の大暴落を経て、いち早くハウスミカンにシフトした。ただ面積は減少を続け、高齢化や担い手不足が進む。井山のひ孫・裕人さん(65)は「子どもの頃は露地ミカンが色づく秋になると山全体が黄色になっていたんですけれど」。変化した景色に寂しさも口にするが、「ハウスミカン生産日本一」の地位に変わりはない。曾祖父が手掛けた産地が受け継がれることを願っている。

 

=かごに乗って視察=

 「こんなものが残っているんですよ」。井山のひ孫の裕人さんは、自宅の2階に保管している乗り物のかごを見せてくれた。

 井山は年齢を重ねて山道の移動が困難になってからも、かごに乗って村人に送り迎えをしてもらい、ミカン園の視察に精力的に励んだという。もともとは医者を目指していたこともあり、「医学の知識でも村人に頼られていたのでは」と裕人さんは推測する。

 大正9(1920)年、生まれ育った平原地区の草場天神社に井山の功績をたたえる碑が建立された。井山は何度も遠慮したものの、村民のたっての願いで生前に建てられた。その碑は今も、桜の木に囲まれるようにして残っている。

 

=井山憲太郎の歩み=

1859(安政6)年 玉島村の医師の家に生まれる

1878(明治11)年 東京帝国大医学部に入学

1882(明治15)年 病で大学を中退し、帰郷

1886(明治19)年 玉島村の勧業談話会員になる

1889(明治22)年 平原分校教師になる

1899(明治32)年 柑橘栽培改良会を組織し、初代会頭就任

1909(明治42)年 東松浦郡の補助を受け、柑橘販路拡大のため朝鮮半島視察

1920(大正9)年 村民が草場天神社に功績をたたえる碑を建立

1922(大正11)年 死去

このエントリーをはてなブックマークに追加