「シキート!(撃て)」。オランダ語の号令が響くと、すさまじい大砲の放射音がとどろいた。天保11(1840)年9月、今の神埼市で行われた西洋式演習。若き佐賀藩主鍋島直正に武雄の砲術が披露された。その中心は武雄領の下級武士、平山醇左衛門(ひらやま・じゅんざえもん)だった◆江戸後期、佐賀の大砲プロジェクトは武雄から始まる。武雄領主鍋島茂義(しげよし)の命により、平山は長崎の西洋砲術家、高島秋帆(たかしま・しゅうはん)に学び免許皆伝を許された。その働きもあり、佐賀本藩にさきがけ武雄で西洋式大砲が製造されたのは、天保7年ごろとみられている。青銅砲を従来の炉で造ったようだ◆蘭学に熱心な武雄の西洋砲術の研究が直正の関心を引き、佐賀本藩が積極的に導入。一躍、佐賀は科学技術の先進地となる。最前線で活躍した平山だったが、人生は突然暗転する◆幕府に端を発した疑獄事件で、師である高島が捕らえられ、その渦に巻き込まれた。平山に命じられた斬首には謎が多く、34歳で刑場に散る。経緯は「佐賀偉人伝」シリーズの一冊、『平山醇左衛門』(川副義敦著)に詳しい◆「肥前さが幕末維新博覧会」がきょう開幕する。「七賢人」だけでなく、平山のような名もない、貧しく波乱の生涯を送りながらも近代化を支えた者が多くいた。雄藩としての佐賀藩の土台を作った人材の幅の広さにも注目したい。(章)

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