「佐賀維新新聞」は、慶応3(1867)年からの明治維新激動期をテーマに、当時の事件、人の動きを現代の新聞のスタイルで描いていきます。「もし今の新聞が当時にあったら?」ということを真面目に検証し、興味深く、分かりやすく、歴史を身近なものに感じられるような企画です。毎月2回の連載で、佐賀や佐賀出身者が関連する出来事を取り上げます。(構成上、写真、カットの時系列や関係者談話にはフィクションを交えます)

物資不足など課題も本府建設

 【明治2(1869)年、取材班】明治新政府の開拓使判官として、北海道(8月、蝦夷(えぞ)地を改称)の石狩へ赴任した島義勇(よしたけ)が11月中旬、札幌で本府(庁舎所在地)建設を開始した。島判官は札幌を適地と決め「いつの日か、世界第一の都になる」と開拓に取り組む。一方で、全国的な大凶作による物資不足や、軍事防衛を司る兵部省との軋轢など課題も浮上している。

 島判官は佐賀藩士として安政3(1856)年、当時藩主の鍋島直正公の命を受け、箱館奉行の蝦夷地調査に同行。調査結果を「入北記」などに詳細に記し、報告している。7月13日に鍋島直正公が初代の開拓使長官に任命されると、島は経験を買われて開拓使判官に抜てきされた。

 島判官は、本府建設に札幌を選んだことを、東京の松浦武四郎判官らに宛てた手紙で伝えたという。探検家で北海道の名付け親でもある松浦判官も、旧幕府時代に本府建設予定地を「札幌樋平(豊平)の辺り」と推薦していた。島も「四方広漠とした平原で絶妙な地形で、開拓が成功すれば必ず一都府となる」とし、適地と確認した。

 島はさらに、参議の大久保利通や副島種臣への報告で「外敵からの攻撃を防ぎやすい地形をしていて、作物がよくできる肥えた土地」とし、「千歳郡や室蘭郡へ大道を開けば、道路網が発達して往来激しくにぎやかになり、世界的な大都市になる」と絶賛している。

 同時に、北海道の物資不足と兵部省との確執という、本府建設を実施するうえでの課題もあがっている。全国的に大凶作による米不足で、開拓使の定額米も調達を指令していたが、うまくいかない状況。また、5月末まで箱館戦争が続いたことによる混乱状態で、北海道内に送り込まれる物資が少なくなっている。食糧米などを積んだ頼みの綱である昇平丸の到着も遅れている。

 兵部省と管轄を巡っての問題も起きている。郡の境界などは、現地で原住民らから聴取した上で決定されるとしていた。しかし、石狩郡に入っている部分を札幌郡に帰属させるかどうかで論争になるなど確執が生じている。さらに、兵部省の事業である、東北戦争で政府軍に敗れた会津藩士らの移住政策が進み、人口急増の中で開拓使の役人らが到着したことによる米の買い付け競争なども起きている。

 現地からの情報によると、本府建設は厳寒の中で進められているが、物資不足などの課題もあり、予算も不足がちで困難な状況が続いているという。

このエントリーをはてなブックマークに追加