「佐賀維新新聞」は、慶応3(1867)年からの明治維新激動期をテーマに、当時の事件、人の動きを現代の新聞のスタイルで描いていきます。「もし今の新聞が当時にあったら?」ということを真面目に検証し、興味深く、分かりやすく、歴史を身近なものに感じられるような企画です。毎月2回の連載で、佐賀や佐賀出身者が関連する出来事を取り上げます。(構成上、写真、カットの時系列や関係者談話にはフィクションを交えます)

新政府の実効支配、全土に

 【明治2(1869)年、北海道取材班】約1年半にわたり新政府と旧幕府勢力とで繰り広げられてきた戊辰(ぼしん)戦争が5月18日、終結した。旧幕府勢力は北海道・函館の五稜郭を拠点に海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)を初代総裁として選出し、共和制国家を建国したが、佐賀藩が加わった新政府側に追撃を受け、わずか5カ月で崩壊。1国2政府状態だった内戦状態に終止符が打たれ、新政府の実効支配が日本全土に拡大した。

 東北諸藩が新政府に従ったことで戊辰戦争は、実質的に終結しかけたかに見えたが、榎本率いる旧幕府軍艦隊は蝦夷(えぞ)地に上陸し、五稜郭で共和制国家の建国を宣言。新政府側と最後の抗戦を繰り広げた。榎本は「徳川家家臣のため、蝦夷地開拓で活路を見い出したい」としていた。

 5月11日、新政府軍による函館総攻撃は熾烈を極めた。新政府軍は、旧幕府軍最大の砦だった弁天岬台場を攻撃。救援に向かった新撰組副長の土方歳三が異国橋付近で銃弾を浴び戦死した。

 新政府側は「甲鉄艦」を旗艦に「朝陽丸」など計6隻で艦隊を編成。旧幕府側は「回天丸」を中心に「蟠龍丸(はんりゅうまる)」と「千代田丸」の3隻で艦隊を組んだが、「千代田丸」が新政府側に拿捕(だほ)され、「回天丸」は機関故障のため、意図的に座礁され、浮き砲台と利用していた。

 函館湾内での海戦では、旧幕府側の軍艦「蟠龍丸」が、新政府軍の軍艦「朝陽丸」を撃沈するなど孤軍奮闘したが、砲弾がなくなり力尽きた。新政府艦隊による陸上への砲撃も本格化した。

 新政府側は「弁天岬台場」や「千代ケ岡の陣屋」など旧幕府勢力の砦を次々と陥落。この戦いで、幕臣の中島三郎助親子が戦死した。18日、榎本軍が全面降伏し、五稜郭が新政府に明け渡されることになった。

 なお戊辰戦争に際し、佐賀藩11代藩主の鍋島直大(なおひろ)には、朝廷から「蝦夷地の旧幕府艦隊を討伐せよ」との命令が下っていた。武雄隊が秋田藩の援軍に駆けつけるなど佐賀藩は東北を主戦場に戦った。前藩主の鍋島直正は体調不良であったにもかかわらず、船で上洛。4月6日に品川沖から江戸入りしたが、すでに佐賀の艦隊は諸藩の軍艦とともに北上し、蝦夷地に向かっていた。

 直正は「まだまだ外国に蝦夷地が狙われている。榎本軍に代わる守りを早急に送り込まねば、蝦夷地はロシアやフランスの領土になりかねない」と懸念していたという。

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