「佐賀維新新聞」は、慶応3(1867)年からの明治維新激動期をテーマに、当時の事件、人の動きを現代の新聞のスタイルで描いていきます。「もし今の新聞が当時にあったら?」ということを真面目に検証し、興味深く、分かりやすく、歴史を身近なものに感じられるような企画です。毎月2回の連載で、佐賀や佐賀出身者が関連する出来事を取り上げます。(構成上、写真、カットの時系列や関係者談話にはフィクションを交えます)

佐賀藩、実力見せつける

 【慶応4(1868)年、江戸取材班】4月11日の江戸開城により、新政府による江戸への影響力が増す中、かたくなに旧幕府を支持し、江戸・上野東叡山寛永寺を拠点としていた武装勢力「彰義隊(しょうぎたい)」に対し5月15日、新政府軍が攻撃をしかけ同日中に勝利を収めた。佐賀藩のアームストロング砲が猛威を振るった完勝ぶりに、旧幕府勢力の江戸への支配力はさらに縮小し、新たな国家体制づくりに弾みがつくとみられる。

 新政府筋によると、旧幕府への強硬派として知られる長州藩出身の大村益次郎が指揮した戦闘は、同日午前7時に始まった。新政府軍は、正面の黒門口へ約600人、側面から約600人、遊撃に750人ほど、それに砲撃隊を用意した。これに対し彰義隊は、大村が前もって攻撃を予告していたため逃亡するものも相次ぎ、約1300人が迎え撃った模様だ。

 鳥羽・伏見の戦闘に参戦しなかった佐賀藩だが、藩主鍋島直大(なおひろ)が同3日に下総(しもうさ)(千葉・茨城)、下野(しもつけ)(栃木)の旧幕府勢力掃討を要請されていたが、この戦いにも最新のアームストロング砲2門を擁した砲撃部隊と陸戦隊を参加させた。彰義隊隊士の士気は高く、薩摩兵が主体の黒門口では激戦が繰り広げられたが、不忍池を挟んだ加賀屋敷に設置したアームストロング砲などの砲撃により、防衛線の吉祥閣が炎上すると新政府軍が勢いづき、夕刻までに上野山を占領した。

 新政府幹部は「これで江戸の治安が確保される。江戸以東の旧幕府軍による反乱の鎮撫(ちんぶ)にも勢いがつく」と勝利を喜ぶが、いまだこの内乱状態の先は見通せない。大村の作戦で、彰義隊の徹底抗戦による被害を少なくするため、根岸方面に退路を開きそれを掃討する予定だったが、同隊が祭り上げた輪王寺宮(りんのうじのみや)公現法親王とともに200人を超える隊士が逃亡し、旧幕府軍勢力と合流したとみられる。

 また、アームストロング砲の威力を目の当たりにした新政府軍は、今後の旧幕府戦力の討伐へ佐賀藩の参戦を積極的に要請するものと思われる。この状況に、「これまでの徳川家とのつながりで、幕府討伐にはなるべく距離を置いていたのだが、今後はそういうわけにもいかないだろう」と、佐賀藩幹部の一人は苦しい胸の内を明かす。しかし、江藤新平や大隈重信など新政府内部で評価を上げている藩士も多い。今後は嫌が上でも佐賀藩も維新の戦局に巻き込まれていくことになるだろう。

彰義隊

 今年2月、前征夷大将軍徳川慶喜の復権を掲げ誕生し、一時は江戸市中の治安維持部隊として任命されていた。故孝明天皇の義弟、輪王寺宮公現法親王を擁し、寛永寺別当の覚王院義観(かくおういんぎかん)の財力もあって、旧幕臣、脱藩兵を中心に町民らまで巻き込み勢力を拡大。最盛期には3千人規模に膨らんでいたとみられる。

 慶喜の水戸謹慎、江戸開城を経て、新政府への敵意は次第に強まり、新政府兵士への殺傷事件が多発するようになった。5月7日には、佐賀藩藩士2人が同隊隊士に襲撃され、1人が殺害された。旧幕臣をとりまとめる勝海舟は、武力衝突を懸念して同隊の解散を促したが、義観らの反発で実現しなかった。

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