「佐賀維新新聞」は、慶応3(1867)年からの明治維新激動期をテーマに、当時の事件、人の動きを現代の新聞のスタイルで描いていきます。「もし今の新聞が当時にあったら?」ということを真面目に検証し、興味深く、分かりやすく、歴史を身近なものに感じられるような企画です。毎月2回の連載で、佐賀や佐賀出身者が関連する出来事を取り上げます。(構成上、写真、カットの時系列や関係者談話にはフィクションを交えます)

首都移転の動き加速か

 【慶応4(1868)年、江戸取材班】新政府による中央政権政治の拠点をどの都市に置くか議論が活発化する中、江藤新平と大木喬任(たかとう)が〓(うるう)4月1日、京都だけでなく江戸にも首都を併設する「東京奠都(てんと)(東西両都)」を建言した。これまで新政府内で遷都推進派の中心メンバーだった大久保利通が、「大坂遷都案」を打ち出していたが、公卿や新政府保守派の猛反発に遭い頓挫。中立案ともいえる「東京奠都案」を江藤らが建言したことで今後、首都移転の動きが一気に加速しそうだ。

 桓武天皇が平安京に都を移して千年以上たつ。京都は土地が狭く、近代国家づくりの上で、都市開発が難しいため、新政府内部からは新たに天皇親政を行う上で遷都しようという動きが上がっていた。

 大久保は京都に近く、全国の経済的中心地となっていた大坂を遷都先に主張したが、反対意見が続出。新政府分裂の恐れが出てきたため、やむなく遷都案を取り下げた。

 江藤はこれを受け、同郷の大木と連名で建言書を出すことを思案。旧佐賀藩主の鍋島直正にも相談し、「佐賀藩論」の形で提出した。

 東京奠都案では、京都を廃するのではなく、新都を江戸に併設すべきと主張した。徳川に別城を与え、江戸を東京と改称するほか、東京と京都に鉄道を敷き、天皇が「東西両京」の間を行き来するようにすべきだと訴えた。都を移す「遷都」と異なり、「奠都」には、ただ単に「都を定める」といった意味合いが込められる。そのため京都から遷都するという宣言ではなかった。

 江藤は同年3月、三条実美 (さねとみ)から土佐藩の小笠原唯八とともに関東偵察を命じられ、江戸を視察。江戸城の無血開城にも立ち会ったとされる。江藤は、江戸が(1)徳川時代からの遺産を継承しやすい(2)郊外の広大な土地が都市開発に利用できる(3)旧幕府の榎本武揚が品川沖に停泊する軍艦の引き渡しを拒むなど、関東の情勢が安定しておらず、旧幕府の勢力をけん制する必要がある―と考えていた。

 大木は以前、江戸を東京とし、京都と大坂を西京とする建言書を三条実美に提出していた。今回の東京奠都建白書は、大木案に江藤が関東偵察で得た最新情報を加味し、大幅に加筆修正したものになった。

 新政府関係者の多くが、新政府が抱える懸案事項に対する解決案として江藤らの弾力的な主張が有効と見ており、今後の政策決定に大きな影響を与えそうだ。

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