「佐賀維新新聞」は、慶応3(1867)年からの明治維新激動期をテーマに、当時の事件、人の動きを現代の新聞のスタイルで描いていきます。「もし今の新聞が当時にあったら?」ということを真面目に検証し、興味深く、分かりやすく、歴史を身近なものに感じられるような企画です。毎月2回の連載で、佐賀や佐賀出身者が関連する出来事を取り上げます。(構成上、写真、カットの時系列や関係者談話にはフィクションを交えます)


今後見据え、幕府資料収集

 【慶応4(1868)年、江戸取材班】旧幕府軍の本拠江戸城が4月11日、新政府軍によって開城され、佐賀郡八戸村出身の江藤新平も参加し、新政府軍東征大総督参謀・西郷隆盛らとともに同城に入城した。江藤はかねてから「江戸遷都」の必要性を説き、税制や刑法などでの政治施策の先見性を評価する声が高まっており、今後、国家体制の整備が迫られる中で、その役割は重要性を増しそうだ。

 江藤は、今年初めの京都・鳥羽、伏見の戦闘に端を発する新政府軍と旧幕府軍の戦い後、新政府副総裁・三条実美から関東偵察を命じられていた。

 佐賀藩が鳥羽、伏見の戦闘に参加しなかったことから、江藤はその嫌疑払拭に向けて奔走。三条や岩倉具視ら新政府首脳に働きかけ、同時に他藩藩士と情報交換にも務めていた。

 そこで新政府は、政策方針への決定に少しでも情報が必要だったことから、各藩の情勢にも通じていた江藤に関東偵察を命じていた。江藤は東征軍や旧幕府軍の状況、会津藩など東北の情勢についての調査を、土佐藩士・小笠原唯八とともに行っていたという。

 江戸城開城については武力衝突の可能性もあったが、3月13、14日に行われた西郷隆盛と旧幕府軍事取扱・勝海舟との会談を受け、戦闘の回避が内定。同22日に江戸へ到着していた江藤、小笠原の2人が、調査の一環として同城接収にも立ち会うことになった。

 平穏に行われた式典後、西郷らとともに幕府の評定所へ向かい、重要書類を回収した。この時、西郷らは農業関係の書類や軍資金の在りかを探ったが、江藤は税制、刑法関連の書類を集めていた姿が目撃されている。

 こうした江藤の行動に対し、旧幕府、新政府双方の識者から「治政において税制、刑法の重要さを理解している」と、今後の政治施策を見据えた動きを評価する声が上がっている。

 また、江戸行きの途中で小笠原の知人の東征軍東山道先鋒参謀・板垣退助を訪問。「日本は封建制度を廃止するべき」「江戸遷都が必要」という江藤を高く評価していたそうで、国家体制の整備が課題となる中、江藤、板垣の動きも重要さを増していきそうだ。

 江戸開城 王政復古を掲げた薩長を中心とする新政府勢と旧幕府勢は、1月3日から6日に起こった京都・鳥羽、伏見での戦闘で戦争状態に突入。緒戦に完勝した新政府は同7日に前征夷大将軍徳川慶喜追討令を発し、慶喜が海路で逃れた江戸へ東征軍を進めた。

 2月になって新政府への恭順を示した慶喜は、鳥羽・伏見の戦闘責任者を処分する。自らは上野寛永寺で謹慎するものの、東征軍は3月5日に江戸を目前とする駿府城に入り、江戸への総攻撃を15日と決める。

 勝海舟が派遣した旧幕府軍精鋭隊隊長山岡鉄舟と西郷が面会した同9日から事態が急転。交渉は江戸総攻撃予定日の直前まで続けられ、13、14日に西郷と勝が直接会談した。

 旧幕府軍の好戦派の存在を背景に勝有利に交渉は進んだ。慶喜は水戸、江戸城内居住の徳川家家臣は城外で謹慎、鳥羽、伏見戦関与者の処分では死罪は許す、など寛容な内容で、江戸開城が決定した。

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