「佐賀維新新聞」は、慶応3(1867)年からの明治維新激動期をテーマに、当時の事件、人の動きを現代の新聞のスタイルで描いていきます。「もし今の新聞が当時にあったら?」ということを真面目に検証し、興味深く、分かりやすく、歴史を身近なものに感じられるような企画です。毎月2回の連載で、佐賀や佐賀出身者が関連する出来事を取り上げます。(構成上、写真、カットの時系列や関係者談話にはフィクションを交えます)

徳川の治世終焉へ 明治天皇に政権返上

【慶応3(1867)年、京都取材班】幕府の長州征伐失敗や昨年の孝明天皇逝去を受け、有力諸藩が佐幕と倒幕に分かれ政局が混迷を極める中、第15代征夷大将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が10月14日、政権返上を明治天皇に奏上。朝廷側は摂政二条斉敬(なりゆき)を通じ15日、幕府側へ政権の返上を勅許する沙汰書を渡したことが分かった。いわゆる「大政奉還」により徳川260年余の治世に終焉(しゅうえん)が打たれた。だが、依然として武力倒幕を目指す勢力の動きはやまず、今後の政権をどの勢力が主導するかは見通せない状況となっている。

 将軍慶喜は3日、土佐藩前藩主の山内豊信(容堂)による「大政奉還建白書」を同藩参政・後藤象二郎らを通じて受け取ったと伝えられ、13日に二条城(京都)で開いた在京40藩の重役会議で政権返上の方針が固められた。

 安政5(1858)年6月、幕府が天皇の勅許を受けず米国との修好通商条約を結んだことから、薩摩や長州といった有力大名や公家勢力による権力闘争が激化していく中で、慶喜が電光石火の逆転を狙ったようだ。「幕藩体制がくずれたとしても、徳川家が新しい政権の中で有力な勢力として存在感を保つための一手」と関係者は語る。今後も徳川家は勢力保持のための策を打ち出していくとみられる。

 一方、薩摩、長州といった武力倒幕を目指していた勢力も水面下での活動は活発で、13日に薩摩藩へ、14日には長州藩へ朝廷から「倒幕の密勅」が出されたという情報もある。両藩の武力行使の可能性もあった状況から、幕府は間一髪で逃れた形になったが、新政権での権力争いが激化していくことが予想される。わが佐賀藩は、表だっての動きはない様子。ただこの春に、大隈八太郎(重信)と副島次郎(種臣)の藩士2人が脱藩し京都で発見された事件があり、今回の動きとの関連が取りざたされている。

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