松尾儀助

ウィーン万博に出品された有田焼の大花瓶について説明する岸川健輔さん=西松浦郡有田町の有田ポーセリンパーク

英国の新聞で紹介されたウィーン万博での日本庭園作庭の様子(佐野常民記念館蔵)

■万博で日本売り込む

 入り口に構える巨大なシャチホコが観客の度肝(どぎも)を抜いたという。明治6(1873)年にオーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会。シャチホコは名古屋城の天守に据えられていた実物で、長方形の展示室の奥には、織物などの工芸品とともに大仏や五重塔の模型も並んでいた。

 趣向を凝らした展示で、ジャポニスム(日本趣味)が席巻したウィーンの街には、佐賀藩出身の商人の姿があった。神埼生まれの茶商で、30代半ばの松尾儀助。商いの手腕を買われ、万博に随行していた。

 出展された高さ180センチを超える有田焼の大花瓶は西松浦郡有田町の有田ポーセリンパークに残る。「金の装飾には漆が張られ、当時の技術が結集されていた」。施設を運営する宗政酒造の営業課長岸川健輔さん(41)は往時の意気込みに感じ入る。

■出発点は茶商

 佐賀藩も出品した第2回パリ万博から6年。明治新政府として初参加したウィーン万博は、日本を世界に改めてアピールする好機になった。遣米欧使節団の一員として訪れた元佐賀藩士の久米邦武は『米欧回覧実記』に「わが日本の出品は多くの人々の高い評価を得ていた」と記している。

 特に人気を集めたのは会場に再現した神社と日本庭園。英国の商社がロンドンに移築して日本の品々を販売する計画を立て、買い取りを申し出た。政府は民間企業との直接契約に懸念を示し、会社を設立して対応することになった。白羽の矢が立ったのが、博覧会事務局と関係が深かった儀助だった。

 ウィーン万博では大隈重信が事務総裁、佐野常民が副総裁を務めるなど佐賀藩出身者が要職を占めていた。儀助は事務局の後押しを受けて「起立(きりつ)工商会社」を設立し、自ら社長に就任した。

 「ウィーンでの衝撃の大きさから、『日本はもっと世界に打って出なければ』と痛感したのだろう」。儀助のひ孫に当たる田川永吉さん(81)=神奈川県=は「商工業を興す」という壮大な社名に込めた儀助の思いを推し量る。

 儀助は佐賀藩の足軽の息子で、数え7歳で父親と死別すると、親戚の商人野中元右衛門(もとえもん)に引き取られた。後にパリ万博に派遣される元右衛門の長崎での商いを助けた。嬉野茶を米国に輸出することを計画し、長期間の船旅による茶葉の変色を防ぐ手だてを検討、紅茶製造にも挑んだ。明治初年に2万両の損失を出したこともあったが、東京に拠点を移してウィーン行きのチャンスをつかんだ。

 単に売り買いをするだけでなく、ものづくりにも深くかかわる姿勢は起立工商会社でも生きた。「国策会社」としてその後の万博に陶磁器などを出品する中で、伝統的な職人を集めて組織化し、工芸品の世界に大量生産を持ち込んだ。

 米ニューヨークやフランスのパリに支店も設けて積極的に展開したが、政府の援助に頼った経営は次第に行き詰まっていく。明治10年代半ばに陶磁器輸出額が減少に転じる中、海外の商人との価格競争にさらされ、明治24(1891)年に解散を余儀なくされた。

■荒波にもまれ

 佐野常民はウィーン万博に参加する目的として、機械技術の習得や各国の文物調査も挙げていた。

 最新の技術を各国で共有して未来を描く万博は、近代化を礼賛し、推し進める役割を果たしたが、別の顔もある。

 首都大学東京教授の國雄行さんは著書『博覧会と明治の日本』の中で、「産業戦争」の一面もあると指摘している。最初の博覧会である1798年の「仏国内国博」は、英国製品の排撃を狙っていた。近代日本の黎明(れいめい)期に儀助も、こうしたせめぎ合いを身をもって経験したのだろう。

 田川さんは「儀助がもたらした多くの外貨が、日本の近代化政策に役立てられた」と評価した上で、「単なるイメージではなく、工芸品の精巧さという本質的な意味でのジャポニスムを広めた」と文化面での功績も強調する。佐賀生まれの政商は貿易の荒波にもまれながら、日本の確かな地位を国際社会に築くために奔走した。

 

=「起立」の精神=

 松尾儀助が設立し、日本の優れた工芸品を輸出した起立工商会社。明治改元から150年を迎えた現代の佐賀にも、会社名を模して儀助の精神を受け継ごうと活動する人たちがいる。

 昨年3月、三養基郡上峰町に誕生した一般社団法人「起立(きりゅう)工商協会」。これまで観光協会がなかった町を観光で盛り上げようと、町内外の事業所が設立した。

 町のふるさと納税返礼品事務を受託し、酒などの商品開発も手掛け、観光事業も計画している。代表理事を務める中山博樹さん(53)は「今までになかったことに挑む、という志の高さを学びたい」と儀助への思いを話す。

 

=松尾儀助の歩み=

1837(天保 8)年 佐賀藩の足軽の家に生まれる

1843(天保14)年 父親と死別し、野中元右衛門に育てられる

1869(明治 2)年 商売で多額の損失を出し、東京に拠点を移す

1873(明治 6)年 ウィーン万博に随行

1874(明治 7)年 起立工商会社を設立

1891(明治24)年 起立工商会社を解散

1902(明治35)年 死去

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