ろくろで彫りを入れる中島宏さん。バッハなどクラシックを聴きながら没頭することが多かった=2011年5月、武雄市西川登町の弓野窯

福岡三越での喜寿展を終えた後、「ひょっとしたら最後の作陶展になるかもしれないと思った」と話す中島宏さん=2017年10月28日、武雄市西川登町の自宅(撮影・中島克彦)

 青磁の陶芸家で人間国宝の中島宏さん(76)=武雄市=が7日、亡くなった。「私は天才ではない。自分にしかできない『オンリーワン』を求めてきただけ」。自分の中にある個性の溶出に陶芸家としての活路を見い出し、「失敗しても大胆な仕事を」と若手に訴えてきた。そんな後ろ姿を見せてきた中島さんの訃報に、陶芸関係者や地元から驚きと惜しむ声が上がった。

 中島さんは6日昼まで自宅で知人と歓談していたが、同日夜に体調が急変。たんが詰まるなど呼吸困難になり、佐賀市の佐賀大学医学部附属病院に運ばれた。病院では妻の寿美子さんが「大丈夫?」と話し掛けると、手を握り返していたが、力尽きたという。

 同じ人間国宝の井上萬二さん(88)=西松浦郡有田町=は訃報に接し、外出先の北九州市から急きょ有田に戻った。「青磁の世界に大きな足跡を残した。あと10年は活躍を続け、若い人たちに技術を伝えてほしかった」と惜しんだ。白磁と青磁で表現は異なるが、ともに造形美を追い求めた同志として「一代で築き上げた技を継ぐ人が出ることが最大の供養になる」と若手の登場を待ち望む。

 十五代酒井田柿右衛門さん(49)=同=も「体調が悪いとは聞いていたが、まだ頑張られると思っていた。ごあいさつに伺おうと思っていたところだった」と驚きを隠せなかった。父親の十四代と中島さんは親交が深く、十四代が亡くなった後は中島さんに相談を持ち掛けることも多かったという。「恩返しができないままなのが心残り。頼れる先輩で、いつも見守ってもらっていた」と肩を落とした。

 県陶芸協会で副会長を務める十四代中里太郎右衛門さん(61)=唐津市=は「会長として引っ張ってくれた」と振り返った。「私に対しても『本物の唐津焼を作れ』と激励してもらい、作陶への励みになった」と故人をしのんだ。

 「鮮烈で独創的な青磁作品にかける情熱と、『古武雄は誇り』という思いにあふれた方だった」と語るのは、地元武雄市の小松政市長。中島さんは2007年に武雄市の名誉市民になっていた。「先生の思いを受け止め、武雄の焼き物振興に努めたい」と話した。

 突出した才能を失い、陶芸の専門家からも惜しむ声が相次いだ。県立九州陶磁文化館(有田町)の鈴田由紀夫館長(65)は、中島作品の魅力を「中国生まれの青磁に、日本で新たな風を吹き込み、現代の青磁として作り上げた」と位置づける。空や水を連想させる「中島ブルー」と称される清らかな青と、優美な中にも強じんさや厳しさを秘めた造形の「色と形の調和が魅力」と評した。

 近現代工芸史の専門家で茨城県陶芸美術館の金子賢治館長(68)=東京=は、中島作品の造形美を第一に挙げた。「中国・宋時代の青磁を超えるのは容易ではない。中島青磁のオリジナリティーは、構築的な造形にあった。青銅器から受けた印象を作品に落とし込んで個性とした」

 13年に「江戸のモダニズム 古武雄」展を開催した九州国立博物館の三輪嘉六・前館長(80)=岐阜市=は「中島さんが長年取り組まれた古武雄の収集は、趣味の枠を越えた一大事業だった。陶芸界だけでなく地元にとっても大変な功績」とたたえた。

「先生の花瓶にいつも花」吉永小百合さん

 中島宏さんは、陶芸界以外に芸能界などでも幅広い人脈を培ってきた。親交のあった女優・吉永小百合さん=東京=は、中島さんのファンで個展にたびたび訪れていた。吉永さんは「突然のお知らせに呆然(ぼうぜん)としています。先生の青く美しい花瓶にいつも花を生けていました。心からご冥福をお祈り申し上げます」と追悼のコメントを寄せた。

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