青磁にかける思いを語る中島宏さん=2011年5月、武雄市西川登町弓野

 青磁一筋の制作活動を続けてきた中島宏さんは生前、「青磁は奥が深く広い。挑戦しがいがあり、青磁だから続けてこられた」と述懐している。人まねとマンネリを嫌い、独創を追求し続けた中島さんらしい言葉だ。その作陶人生を振り返ると、いくつかの「出会い」があったように思う。

 一つは、ひとかけらの陶片との出合いだ。まだ先行きも定まらない若き修業時代。自宅のある西川登町弓野周辺の古窯跡を歩き、陶片を探し集める中で青磁片を見つけた。澄んだ緑色の磁肌に心を動かされ、「どうせやるならこういうものを」と考えたが、父親は「青磁は一番難しかぞ」と反対。それがかえって持ち前の反骨心に火をつけた。人生の原点だった。

 さらには東洋陶磁研究の第一人者、小山冨士夫氏との出会いである。青磁の関連資料をむさぼり読んでは、土や釉薬(うわぐすり)のテストを積み重ねたが、文献に頻繁に出てくるのが小山氏の名。面識も紹介もなく青磁の壺(つぼ)を抱えて鎌倉の家を訪ねた。「青磁ほど魅力的なものはない。最後に行きつくのが青磁という人もいる」と励まされ、制作の目標が定まった。20代半ばのころだ。

 作陶人生を語る上で欠かせないのは、青磁の源流とされ、宋代に発展した中国の龍泉窯(浙江省)との出合いである。そこへ1985年、調査に入る。「中国の陶工がモチーフにしたのは山であり、空であり、水の色」と感じ入る。中島さんはそれを古里の自然に置き換えた。「弓野の竹の青、水の青、空の青を表現したい」。己の創作への姿勢を強く意識し、追い求める像が結べた。

 同じころ中国の博物館で青銅器に出合い、触発される。これが転機となり、いにしえの装飾のような彫りを入れ、色も「ダークで渋い深み」を目指すようになった。沈潜した美感をたたえた個性的で品格ある作品群を生み出し、「中島ブルー」が進化していった。

 伝統を意識しながらも、常に前衛でありたいという意欲にあふれた作家だった。個展を開けば、釉色(ゆうしょく)、器形、貫入(ひび模様)、どれ一つとして同じものがない。「危険なものに美がある」と言って、成功か失敗のぎりぎりを狙う。焼いた10個のうち9個は捨てる―。とどまることをしなかった。

 中島さんを支えたものは、絶えざる研究心だったろう。「今までにないものが偶然にできることがある。大事なのはそのままにしないこと。なぜできたのかを追求することで、偶然を必然に変えていく。それで独創を磨いた」と語っていた。

 中島さんほど深く、広く、青磁の美を極めようとした作家は希有(けう)といえる。それを可能にしたのは、「だれも生み出せなかった青磁を創りたい」という闘うような創造への情熱だ。

 長じては、佐賀県陶芸協会長や日本工芸会副理事長として後進の指導にも熱心に取り組んだ。「若手には私を踏み台にして成長してほしい」。それが常々の弁だった。

 最後にお会いしたのは昨年10月、福岡市で開いた喜寿を記念しての個展会場である。「理想の青があるけど、言葉では表せない。目標に達してないので、まだ死ねないんですよ」。少し体調を崩されてはいたが、話し始めると口調に気がみなぎった。最後まで歩みを止めることがなかった中島さん。惜しまれてならない。ご冥福を祈りたい。(論説委員長・横尾章)

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