徳川権七

徳川権七の足跡を語る「脊振を愛する会」の真島久光さん=神埼市脊振町の三継山

徳川権七の発案で、脊振小学校に住民の協力で建立した石門は今も正門に残っている=神埼市脊振町

徳川権七が進めた植林事業で、三継山で育った杉やヒノキ=神埼市脊振町

■山村興す大規模植林

 杉やヒノキが天に向かって真っすぐに伸びていた。脊振山系にある標高475メートルの三継山(みつぎやま)の中腹。神埼市脊振町のこの地で大規模な植林を主導したのは、明治37(1904)年から5期18年間、旧脊振村の3代目村長を務め、「造林の父」と呼ばれる徳川権七(ごんしち)だった。

 徳川は安政2(1855)年、旧脊振村久保山伊福で生まれ、幼少期は地元の住職に学問を教わった。駆け回った野山には、建築材に加え、薪(まき)や炭などの燃料として住民の生活を支えていた山林があった。

■相次いだ官林盗伐

 幕末から明治初期にかけては行政組織の改編や統廃合が相次ぎ、明治新政府は林野行政に本格的に取り組める状況ではなかった。そんな中、地方を中心に官林の盗伐が発生し、佐賀県でも頻発した。幕藩体制のころには厳しかった取り締まりが緩んだためで、新政府の基礎が固まるにつれて盗伐対策を含めた官林整備の要求が強まる。国は明治19(1886)年から本格的な官林経営に乗り出した。

 徳川は25歳で、町村役場の前身となる服巻(はらまき)山戸長(やまこちょう)役場で書記役の筆生(ひっせい)になり、町村制が施行されてからは村会議員として活動した。その後、郡会議員や県会議員を歴任する中、林業振興を目的に創設された「大日本山林会」の名古屋での会合に明治35(1902)年に出席し、転機を迎える。林学博士の講演に聴き入り、林業先進地の造林の現場を目の当たりにして、山村の財政を支えるのはこうした事業だと思い至る。

 名古屋から戻ると、当時の村長や村職員と一緒に「村をよくするには造林事業しかない」と村民に説いて回る。ただ、官有林の下草を刈り、田畑の肥料や家畜の飼料に活用していた村民の多くは歓迎しない。それでも徳川は説得を続ける。将来的に村人口が増えることを見越し、それに伴って耕地が増えるわけではなく、発展が困難になって別の地に移住しなければならなくなる可能性を訴えた。

 戸主会の承認を得て、計画が動き出したのは明治38(1905)年。村長に選任された翌年で、2年前に国から払い下げを受けた3千ヘクタールの山林で、杉やヒノキなどの植林を実行していった。

 最初に植林した場所が三継山だった。旧脊振村は三つの山村が合併して誕生していた。その全てが交わる地点だったため選ばれたといわれている。第1段階として大正5(1916)年までに1千ヘクタールを植林することを目指し、村民の協力を得ながら作業を進めた。

■奉仕作業に反発も

 事業は必ずしも順風満帆ではなかった。植林が進むにつれ、村民の労働日数は増えていった。計画の最終年には、不満を募らせた人たちが「村長辞任」を求めて役場に押しかけた。火鉢を投げるなどの暴動も起き、逮捕者が出て、山に火を放つ者まで現れた。

 「植林は無償の奉仕作業。労力だけがかさみ、どこの家庭も苦しかったはず」。年ごとの植林面積などを調べた「脊振を愛する会」代表の真島久光さん(69)は推し量る。

 最終的に村民を説得することができたのか、徳川の引き継ぎ書には「千町歩(約1千ヘクタール)を植えることができた」という内容の記述が残る。その後も村長を務めた徳川は、大正13(1924)年、執務中に倒れて亡くなった。

 徳川の死後、昭和16(1941)年から村有林の主伐が始まった。植林した木材を売った収入で一時は、村の予算の5~6割を賄えるぐらいに潤沢になった。1年限りだったが、昭和34(1959)年には議会の議決を経て、村民税が廃止された年もあった。

 異論はあっても村民が事業の継続を支持したことで恵みが残り、山の保全や水源の涵養(かんよう)にもつながっている。真島さんは「植林にかかわった当時の人たちは子や孫のことを思ってくれたんだと思う」と話す。

 国産材価格の伸び悩みや山村の高齢化で、林業を取り巻く環境は厳しい。それでも、徳川ら先人の思いを継ぐように植林は続いている。

 

=学びやには石門=

 地元の学びやにも使われてきた旧脊振村の村有林の木材。徳川権七は教育への思い入れも強かったようだ。現在の神埼市脊振町の脊振小学校正門には、徳川が発案した石門が残る。

 石門は高さ4.2メートル、幅は約1メートルで、左右で重さが異なる。村民約600人が花こう岩の切り出しから運搬、建立まで協力したと伝わっている。大正3(1914)年3月に完成し、地元の子どもたちの成長を願い、「日本一の脊振小の石の門」と名付けられた。

 徳川の志を受け継ごうと同校は昭和61(1986)年、「五つの教え」を定めた。「心の大きいやさしい子」「故郷を愛し学業に励む子」など目標を掲げ、教えを記した石碑も設けた。

 

=徳川権七の歩み=   

1855(安政 2)年 旧脊振村の久保山伊福で生まれる

1880(明治13)年 町村役場の前身となる服巻山戸長役場で書記役の筆生となる

1889(明治22)年 脊振村の村会議員になる

1902(明治35)年 名古屋で開催された大日本山林会に出席

1904(明治37)年 3代目の脊振村長に選出される

1905(明治38)年 脊振山系の三継山に初めて植林

1912(明治45)年 県知事から植林事業功労賞を受賞。農商務大臣からは銀杯を受ける

1914(大正 3)年 脊振小の石門を村民と完成させる

1924(大正13)年 死去

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