竹内明太郎

明治40年代の芳谷炭坑(佐賀新聞社発行「目で見る佐賀百年史 明治・大正・昭和秘蔵写真集」より)

早稲田大学の西早稲田キャンパスにある竹内明太郎の胸像。理工科は現在、基幹理工、創造理工、先進理工の3学部になっている=東京都新宿区(早稲田大学提供)

歯車を加工するため、昭和40年代から稼働する機械のそばで、竹内明太郎の足跡を語る唐津プレシジョン社長の竹尾啓助さん=唐津市二タ子の同社

■工業国へ技術者育成

 明治期の唐津に、工科大学を創設することを計画した人物がいた。北波多の「芳谷炭坑」をはじめ、全国各地で炭鉱経営に携わった竹内明太郎(めいたろう)。石炭の積み出し港として活況を帯びていたこの地で、人材育成の拠点づくりを夢想していた。

 竹内は万延元(1860)年、土佐藩・宿毛の上級藩士の長男として生まれた。鎖国体制が解かれ、学問の主流が蘭学から英学へと変わる中、大阪の英学塾で学ぶ。東京では、思想家の中村正直や中江兆民から西洋思想も学んだ。

■最新技術を導入

 父親の竹内綱(つな)は、同郷の板垣退助らととともに自由民権運動に奔走する一方で、長崎の高島炭鉱の払い下げを受けたことを契機に鉱山開発に乗り出す。明治政府は富国強兵や殖産興業の観点から、官営の鉱山や工場を数多く運営していたが、産業を育成するため1880年代以降には民間への払い下げを本格的に進めていた。

 綱は明治18(1885)年には、高島炭鉱の技術者だった高取伊好(これよし)と組んで、芳谷炭坑の経営権を取得する。この実質的な経営を、成長した竹内明太郎に任せることにした。唐津に赴任したのは翌年で、26歳だった。

 海外の書物や専門書を読みあさり、技術指導には英国人技師を招き、削岩機も英国から輸入するなど積極的に最新技術を導入した。唐津港に石炭を運ぶための軽便鉄道を私費で敷設し、この区間で佐賀県初となる電話も結んだと伝わる。

 そうして全国有数の炭鉱に成長し、佐賀県統計書によると、赴任から20年後の明治39(1906)年の採掘量は49万トンに上った。「北波多の自然と歴史を守る会」会長の石崎俊治さん(68)は生産性の高さに目を見張る。「従業員1人当たりの採掘量が県内の他の炭鉱とも桁違い。いかに機械化が進んでいたかが分かる」

 鉱山経営者として経験を積んだ竹内は、第5回パリ万国博覧会(1900年)に合わせて渡欧した。1年間にわたる滞在で、改めて実感したのは欧州との技術力の差だった。

 機械工業の発展が国力の増強になる-。竹内は確信し、新会社を興すことを決意する。万博から6年後、米国への留学経験がある技術者の竹尾年助が加わって、炭坑付属の唐津鐵工所(てっこうしょ)(現在の唐津プレシジョン)を立ち上げ、炭鉱機械などを手がけていく。

 竹内は後に、石川県の遊泉寺銅山に小松鉄工所(現在のコマツ)も設立する。「鉱山業から機械工業への発展は当時の典型的なパターン。自然な流れだった」。年助の孫で、唐津プレシジョン社長の竹尾啓助さん(73)はこう解説する。

■工科大学構想も

 竹内は唐津と小松の二つの鉄工所に、技術者を養成する3年課程の見習学校を設けた。欧米の工業や科学の技術を支えているのは教育と考え、工科大学を唐津に創設する構想も抱く。開学時の教授陣となる人材を実際に海外へ留学させて準備を進めていく。

 結果的には、唐津では学生の確保が難しいと判断し、断念する。しかし、資金と人材をそっくり早稲田大学に譲り、明治41(1908)年の理工科の創設につなげた。早大創立25年目のことで、帝国大学や欧米に引けを取らない工業教育の確立を目指していた大学に、巨額の寄付による設備が整えられた。その後も教授陣の報酬を数年間負担するなど物心両面から支えた。

 竹尾さんは思いを推し量る。「もし唐津に工科大学が開学していれば、少なくとも高専クラスの学校が残っていたはず。ローカルの視点では残念だけど、国全体のレベルを押し上げるのが本願だったのでしょう」

 竹内を学祖とする学校は故郷の高知県に加え、石川県にも工業高校として残り、絶えることなく技術者を送り出している。

 

=「ダットサン」の由来=

 竹内明太郎は日産自動車の前身となる企業にも関わっている。自動車工場「快進社」が1914(大正3)年に完成させたダット自動車(脱兎号)は、出資者である田健治郎、青山禄郎、そして竹内の頭文字「DAT」から名付けられた。

 快進社は「ダット自動車製造」に改称し、31(昭和6)年に開発した小型乗用車の車名を「DATの息子(SON)」という意味で「ダットソン」とした。後に太陽の「SUN(サン)」に変えて「ダットサン」となり、日産自動車になっても車名で使用された。

 ダットサンは34年から81年まで約160カ国に輸出された。81年から「日産」ブランドに順次統一され、2002年に生産を終了。14年に新興国向けの低価格ブランドで復活した。

 

=竹内明太郎の歩み=

1860 (万延元)年 土佐藩・宿毛で上級藩士の家に生まれる

1885(明治18)年 父親の竹内綱が高取伊好とともに芳谷炭坑の経営権を取得。翌年、経営実務を任された明太郎が唐津に赴任

1900(明治33)年 パリ万博に合わせ欧州視察

1906(明治39)年 炭坑付属の鉄工所として唐津鐵工所を創設。3年後に生産開始

1908(明治41)年 早稲田大学理工科開設

1911(明治44)年 芳谷炭坑を三菱合資会社へ譲渡

1915 (大正4)年 総選挙初当選。以降、3期連続当選

1917 (大正6)年 石川県の遊泉寺銅山で小松鉄工所を設立

1928 (昭和3)年 死去

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