対談するジャーナリストの門田隆将氏(右)と中尾清一郎佐賀新聞社長=6日、佐賀市の佐賀新聞社

 会員制交流サイト(SNS)の普及で誰もが情報の発信側に立つようになり、マスメディアのありようが問われるようになった。「活字離れ」が加速する中、新聞を含む活字媒体の将来はどうなるのか。佐賀政経懇話会の発足50周年を記念した政経セミナーとの合同例会で講師を務めたジャーナリストで、ノンフィクション作家の門田隆将氏と中尾清一郎佐賀新聞社社長が、今のジャーナリズムの課題とあり方を語り合った。

■新聞は建前論しか書かぬ/地方紙は地域に密着せよ

 中尾 今回は「活字媒体の未来」というテーマを設定させてもらった。

 門田 活字媒体は、月刊誌も週刊誌も新聞もどんどん縮小しており、新聞の場合はむしろ加速している。地域に密着した情報を求める地方の人にとって、全国紙は必要なくなってきている。全国紙に載っている情報はテレビとインターネットで十分代替できる。

 中尾 地方紙は、他に代替できないオリジナルのコンテンツをどれだけ強くしていくかが問われている。新聞は、ここまでしか書かないというバイアスがかかっている。(門田氏が記者や編集長を経験した)週刊誌は、新聞が書かなかったことを書こうとする。新聞が書かないだろうという「線引き」を見て、どう思うか。

 門田 建前論しか書かないし、それは偽善だ。主義主張やイデオロギーに基づいてニュースをねじ曲げてくる。これが新聞だという揺るぎない認識がある。それを見抜いたのは、インターネットだ。

 私は、インターネット時代のことを「情報ビッグバン」と呼んでいる。一人一人が情報発信のツールを持ったわけだから大革命といえる。大新聞は、省庁や警察などそれぞれの記者クラブにすべて記者がいて、情報を独占し、都合がいいように加工して大衆に下げ渡してきた歴史がある。それがインターネット時代が来たら、それぞれの当事者が「うそが書かれている」「違う」などと、どの手段を通じてでも発信できるようになった。「一億総監視時代」ということだ。

 中尾 メディア、新聞は権力を監視していると言いながら、実は自分たちが監視されていて、ある意味、イエローカードを出されていることに気づいていないと。

 門田 それでも新聞は社会資本なんだということが、大衆にもう一度分かってもらう時が来ると思っている。私は、東日本大震災の時の福島民友新聞社(福島県)を取り上げて本にしたことがある。津波で記者が亡くなる、放射能が迫る、停電で非常用発電も起動せず大変な状態になったが、何とか新聞を発行した。

 当時、着の身着のままで避難し、半年後ぐらいに放射線量が下がったとして一時帰宅が認められた。帰ってみると、その日の新聞が届いていた。「俺たちが避難した後、配っていたのか」という話が記者に伝わり、記者は「新聞こそ社会資本」と思ったと聞いた。

 中尾 日本の新聞が今、なぜこうなってしまったのかというのは、日中戦争から太平洋戦争の15年間に、戦争を止められなかったどころか、戦争をあおってきてしまったという反省から戦後の新聞が始まったというところまでさかのぼると思うが。

 門田 (新聞は)戦前は軍部が絶対で、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)が絶対になる。昭和20年9月に朝日新聞は、鳩山一郎へのインタビューで、原爆投下の戦争責任と、赤十字の医療船を潜水艦が沈没させたのは戦争犯罪だということを引き出して載せた。これがGHQの逆(げき)鱗(りん)に触れ、2日間の発行停止処分を受け、プレスコード(新聞統制基準)が出された。それで10月に朝日新聞は編集幹部が全員交代し、GHQ寄りになってしまう。戦中に新聞が軍部に肩入れしたように今度はGHQに、という具合になる。新聞メディアを語る時、新聞は常にすがる対象がある。

 新聞は、あくまで当局がどう見ているか、どんな証拠が浮かんだのか、など当局筋の話を記事にする。なぜか。記事に文句が出た時に「当局から出たものなので文句は当局へ」となる。それではジャーナリズムは当局の単なる宣伝媒体だ。

 昭和31年に週刊新潮が創刊された時、「藪(やぶ)の中スタイル」という新しいジャーナリズムの形をつくった。「藪の中スタイル」とは関係者すべてに取材して書き、当局は談話の一つとして盛り込む。事件が終結し裁判になって判決が出ても、裁判所における真実が明らかになるだけだ。当事者しか真実は分からないのだが、それを「こういうことが起こっているよ」と結論を書かずに大局的にものごとを描く。それが「藪の中スタイル」だ。

 このスタイルをつくったことで当局の価値は半減した。他の関係者とともに横並びになったわけだから。戦前に、軍部にすがるジャーナリズムではなく、そういうジャーナリズムがあれば良かった。

 新聞がいう「権力の監視」を聞くたびに疑問に思う。いろんな権力、圧力団体があるのに戦わない。政府与党に対して、反撃してこないことを前提にけちをつけるだけの記事を書いて陶酔している。(週刊誌は)そういうのだけじゃなくて朝日新聞とも戦うし、日弁連とも戦うし、朝鮮総連とも創価学会とも労働組合とも戦ってきた。「権力の監視」とはそういうことを言う。

 中尾 新聞は全国紙から地方紙まで大きくなりすぎた。ジャーナリズムではなくなって、上品になってしまった。本来、ジャーナリズムはハングリーなものだ。本当に身につまされる。

 今は新聞を読まない、関心を持たない、信用しない人たちが多数派となり、こちらに共感してもらうことが難しい時代になった。メディアだけでなく、個人も発信するようになった中で、ジャーナリズムとはどうあるべきか。

 門田 インターネット時代になって、大衆のレベルが上がった。新聞は建前論や予定調和を指向する姿勢をやめるべき。私は地方紙は生き残れると思う。地域に密着することで地域の情報が入り、住民に欠かせないものになる。それが社会資本の一つとなることにつながる。

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